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2014年8月13日 (水)

『6才のボクが大人になるまで。』の新しさ

劇映画でいつも気になる1つは、時間が過ぎたことの表現だ。「10年後」などと出てきても、「全く老けていないじゃないか」とか「1980年代であれはない」などとメイクの良し悪しや衣装やセットを批判する。ところが、11月14日公開の『6歳のボクが大人になるまで。』は、その必要が全くない。

内容は邦題の通り(原題はBoyhood=少年時代)で、6歳の少年が18歳で大学に行くなるまでを描いたものだが、何と映画自体を12年かけて撮っている。つまり観客は少年が自然に大人になる様子に、まるでドキュメンタリーのように2時間45分立ち会うことになる。

主人公の少年メイソンばかりではない。父親(イーサン・ホーク)も母親(パトリシア・アークエット)も姉も、同じ俳優がみんな同じように年を取ってゆく。ほかの脇役もそうだし、何より2002年から2014年までの時代そのものが、そのままに流れてゆく。

まず、姉弟の成長ぶりをほぼ1年ごとに見るのが一番の楽しみだ。母は父と離婚し、大学の先生と再婚したり、さらに離婚したり。父はミュージシャンの夢を捨てきれずに、ほかの仕事をしながら再婚する。そんな人生の大事件はさらりと過ぎ、妹弟は着実に育つ。

少年は髪を長くしたり、2度目の父親の命令で切られたり。姉も赤く染めたり、元に戻したり。子供の顔がいつのまにか青年に近づいてゆくのは、まるで時々会う親戚の子供のようだ。とりわけメイソンの顔がある種の憂いを帯びてきて、話し方もシャイになってゆく感じがいい。

一方で大人たちは老いてゆく。とりわけ何度も結婚に失敗する母親は、だんだん太ってゆくし、見ていてつらい。それでも自立しようと大学に入り直して大学院に行き、小学校の先生をしながら次第に大学の教員まで上り詰めるさまは、悪くない。高校生のメイソンが大学で立派に講義する母親を見に行くシーンに泣いてしまった。

終盤の自宅でのメイソンの卒業パーティやその後少年が車を運転して大学に行くシーンもいい。彼と大人の会話を交わす父親や、小さなアパートに引っ越して人生を仕切り直す母。もっともっと見たくなった。

『ハリー・ポッター』シリーズの刊行とか、フェイスブックとか、レディ・ガガとか、時代ごとのシンボルが挟まれているのも楽しい。21世紀初頭のアメリカの家族がそこにある。

監督は「ビフォア」シリーズで同じ俳優を使って似たような試みをしてきたリチャード・リンクレイターだが、1本の映画でやるのは初めて。最近見た『夢は牛のお医者さん』はある少女を26年間追いかけたものだが、これは地方テレビ局ならではのドキュメンタリー。こちらは、プロの俳優を使って最初から劇映画として12年間撮るのだから訳が違う。

演出も「ビフォア」シリーズに比べてコテコテ感がなくて良かった。こんな映画がアメリカに現れるとは、アメリカが本当に老いた証拠だろう。それにしてもこんな企画がよく通ったと思う。そのうえ配給はユニバーサル(つまり東宝東和)というメジャーだから。年末の洋画話題作間違いなし。

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