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2014年8月 6日 (水)

クメール・ルージュを考える2本

同じ映画館で、クメール・ルージュについて考える映画を2日続けて見た。ユーロスペースで見たのは『消えた画 クメール・ルージュの真実』と『おばあちゃんが伝えたかったこと~カンボジア・トゥノル・ロ村の真実』。1本目は東京国際映画祭で、2本目は山形ドキュメンタリー映画祭で見逃していた。

クメール・ルージュとは、1975年から79年までポル・ポトを中心にカンボジアを支配した組織で、文化大革命を模倣した農村運動を行いながら、人口700万人のうち200万人を虐殺している。

『消えた画』は、カンボジア出身でパリで活躍するリティ・パニュの監督作品。彼は1979年にクメール・ルージュの虐殺から逃れて難民としてパリに着き、映画を学んでいる。ドキュメンタリーも劇映画も撮っているが、すべてカンボジアが舞台だ。

今回は、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの活動を写した当時の映像を見せながら、そこに木で作られた人間の形をした小さな人形によるドラマを組み合わせている。全く動かない、素朴な人形たちが、派手な服装をして踊ったり、黒い服絵を着せられて強制労働をさせられたり。

過去の映像には、まるでヒトラーを捉えた映像のように、ポル・ポトを囲んで熱狂する人々がいたり、田舎で強制労働をさせられる表情のない人々がいる。かつての賑やかな市内の映像と、誰も人のいない廃墟のような同じ場所の映像が対比される。

一方で人形たちは動きもしないが、なぜか人間味がある。単純作業をしている姿や、映画を撮ったり、映画を見ている姿。そしてそこに流れる美しいナレーション。アニメの原型のような単純な映像が、とてつもない力を持つことを監督は熟知している。

それに比べると、『おばあちゃんが伝えたかったこと』は普通のドキュメンタリーだ。監督のエラ・プリーセはイタリア人女性だが、現在のカンボジアにカメラを持ちこむ。当時の被害者をインタビューし、彼らにその絵を描かせたり、あるいはカメラの前で演じさせることで、当時の記憶を蘇らせる。

夫と別れた場所に行って、その時の夫の言葉を再現する老婆が印象的だ。「俺は死ぬ。どうしようもない。子育ては任せたぞ」。左目は潰れ、右目は動かない老婆の声が高まる。あるいは、「これまで自分たちの話は子供たちは信用してくれなかったが、今回映画を撮ってようやくわかってももらえた」と語る老人。

『アクト・オブ・キリング』に似ていて、欧米人がカメラを持ち込んで現地の人々に過去を再現させてそれを映像を撮る姿勢にいささか疑問はあるが、それでもカメラの力というものを改めて認識させる1本。

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