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2014年8月27日 (水)

5回目のヨコトリ:その(2)

前に述べたように今回のヨコトリは章立てになっている。新港ピアで第10話と第11話を先に見てしまった私は、無料バスで横浜美術館へ移動した。館の前にはだい「序章」としていくつかの立体がある。

ヴィム・デルボアの鉄の装飾の施された《低床トレーラー》も、ドラえもんをゴミ袋で包んだようなギムホンソックの作品も見ていて楽しいが、美術館の1階フロアーにでんと立つマイケル・ランディのゴミ捨て場は爽快だった。

さて第1話は一挙に美術館らしくなる。マレーヴィッチの小さな絵に始まって、村上友晴などミニマルな作品が続く。それを通り抜けると、一転して「釜ヶ崎芸術大学」というNPO団体の活動を見せる展示になる。労働者向けの学びの場のようで、大阪的な居直りのようなユーモアが溢れている。

それから第3話、第4話と孤独な作品が続くが、キーンホルツの壊れたテレビのような時代錯誤的な作品の集積が、強く印象に残る。あるいは福岡道雄の奇妙な立体。いずれにしても60年代や70年代の作品が多い。

美術館で一番おもしろかったのが、第5話のTemporary Foundationの《非人称の漂流》という展示。「京都アンデパンダン展」の林剛と中塚裕子による10年間(1983~93)の展示を見せるもののようだが、「再現ではない」と書かれている。いずれにしても、赤い鉄枠と鏡で作られた裁判所や刑務所の中を歩くと、恐怖感が走る。権力そのものと対峙する感じか。

第6話も坂上チユキの細密画のような絵やアリーナ・シャポツニコフの気持ちの悪い立体が印象に残る。第7話はカフェの展示で、8話、9話はイベントのようだ。

そんなこんなで見ごたえがあったが、古い作品が多すぎる。やはりビエンナーレやトリエンナーレは、現代美術の最先端を見せて欲しい。そうでないと、単なる美術館の企画になってしまう。そうでなくても見本市会場や倉庫ではなく、美術館を中心にしているのだから。

これでは越後妻有や瀬戸内国際芸術祭のような地域振興型の村おこしに負けてしまう。今回のヨコトリには、祝祭性や見世物らしさが決定的に欠如している。そういえば、芸術監督の森村さんの作品も見たかった。彼の作品は見世物らしさに溢れているのに。

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