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2014年11月16日 (日)

1925年のドイツとオーストラリアの映画2本に酔う

フィルムセンターの「フィルムアルヒーフ・オーストラリアの無声映画コレクション」にようやく行くことができた。見たのはロベルト・ヴィーネ監督の『芸術と手術』とG・W・パブスト監督の『喜びなき街』という1925年の2本。短編も4本あった。

この2本がドイツ表現主義に属するかというのは年代的に微妙だが、少なくとも『芸術と手術』を見ながら、『カリガリ博士』(1919)を考えないのは難しい。同じ監督だし、主演は何と『カリガリ博士』でチェーザレを演じたコンラート・ファイトだから。

舞台はフランスで、ピアニストのポール・オーラックは、妻イヴォンヌの元に帰る列車で事故にあう。妻は現場に駆けつけるが、夫は瀕死の状態。何とか手をそのままにという妻の懇願を受けて、医師は死んだばかりの死刑囚ヴァスールの手を接合する。

こう書くとまさに表現主義的だが、『カリガリ博士』のように壁が斜めになっていることもないし、道も曲がりくねっていない。しかしベッドで頭に包帯をしたポールが起き上がると、鼻や目のあたりが明らかにチェーザレなので、どこか異常を感じてしまう。

殺人事件が起こり、残された銃でポールが疑われる。最後にすべては医師の助手のネラの仕業だったということがわかる。105分だが中盤が少し退屈かもしれない。イヴォンヌのもとを訪れる4人の借金取りの機械のような動作とか、最後に集まる警官の興奮した様子とか、やはり「カリガリズム」。演奏も弁士も良かったが、男性弁士の女性の声色がいささか気になった。

『喜びなき街』は有名な作品だが、実は見たことがなかった。今回は150分ほどの最長版。これはもう、その露悪趣味に唸った。表現主義というよりは、小説だとゾラ、映画だとシュトロハイムやブニュエルに連なる自然主義だろう。

金持ちは株価を操作して儲け、貧乏人は肉屋で長時間並んでも肉が手に入らない。その肉屋を演じるのは、何とカリガリ博士を演じるヴェルナー・クラウス。映画はその列に並んでいた3人の女に焦点を当てる。

スェーデン出身の大スター、グレタ・ガルボ演じるグレテは、会社を社長のセクハラで辞めるが、同じころ父は早めの年金を手に入れようと会社を退職して、株につぎ込んで大損をする。最後に彼女がキャバレーで、裸に近いドレスを着せられるシーンなどはドキドキした。

デンマーク出身の無声映画の女神、アスタ・ニールセンはもっと貧しい家のマリーを演じる。彼女は好きな男エゴンがいたが、こちらは出世のために金持ちの女を追い回す。マリーはバルパライソから来た金持ちの愛人になるが、エゴンを忘れられずに殺人にまで至る。

もう1人は夫と子供のいる女で、あまり出てこないが、肉屋に身を任せて肉をもらったり、最後にもう一度肉屋に言って断られるシーンは忘れがたい。このラストでは民衆が反乱を起こして火事が起き、もはや暴徒状態。

キャバレー及びそれと繋がったホテル・メルクルを仕切る短髪の女(ヴァレスカ・ゲルト)も忘れがたい。金持ちの男たちと貧乏な若い女たちを結び付け、不気味な笑いを浮かべる。

何となくワイマール・ドイツの退廃を堪能した感じだったが、加えて『喜びなき街』の前に写されたサトゥーン社のエロチックな初期映画の短編がすごかった。

『遊泳禁止』は、川で全裸で泳ぐ女性たちを見つける男の話。女たちは騒いで陸に上がるが、胸だけでなくヘアまで見えた。『中国の魔術』は、魔術師が半裸の踊り子4人を次々に出現させるというもので、彼女らは大きな胸を出し、前には一応布があるが、お尻には何もない。いやはや、ウィーンやベルリンはすごい。

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