東映京都の「あかんやつら」
11月になって『映画の奈落』を読んで北陸ヤクザの世界に浸り、高倉健が亡くなって「昭和残侠伝」や「網走番外地」などのDVDを見ていたせいで、東映京都撮影所をもっと知りたくなった。そこで読んだのが、春日太一著『あかんやつら』。副題は「東映京都撮影所血風録」。
この本は、東映京都撮影所の変遷を戦後の草創期から1980年代まで描いたものだ。1977年生まれの著者が関係者に何年もインタビューを重ねて書いたもののようだが、最初はフィクション仕立てが気になった。出だしはマキノ光雄を主人公に、「見てきたように」書いている。そして次に岡田茂が主人公になる。
私は一応「映画史」を教えているので、史実と聞いた話と筆者の想像が混じっていないかと警戒心が強く働く。こうした物語仕立てだとなおさらだ。ところが岡田茂のあたりから、中身がおもしろくてあまり気にならなくなり、最後まで一気に読んだ。
東映の発端が「東横映画」つまり東横線の東急グループだということや満州からの引揚者が多いことは映画史の知識として知っていたが、「大陸から引揚げてくる映画人の救済」を大方針として立てていたとは知らなかった。
東急の五島慶太は番頭格の黒川渉三を社長に迎えて、戦前からあった映画館を中心とした「東横映画」を復活させて、製作に乗り出す。黒川は知り合いの元日活多摩川撮影所長で満映にいた根岸寛一に助けを求める。根岸は日活で組んだマキノ光雄を製作責任者に据えて、引き揚げ者を次々に迎え入れた。
当時の東映京都が最も重要視したのが「テンポ」。「「グランプリの大映」を筆頭に他社の時代劇が「重厚なドラマ」を重視していたのに対し、東映は徹底して「スピード感」を追い求めた」。そして「ヤマ場からヤマ場へ」を合言葉にしたという。
岡田茂は私のなかでは「ミスター東映」的なイメージだが、やはり入社早々から非凡だったようだ。東大卒なのに「大きな体躯と柄の悪い広島弁の持ち主は、若さに似合わぬ押し出しの強さで、叩き上げの荒くれたちと堂々と正面から渡り合っていった」
東映がいかにスターを大事にしていたかもよくわかる。「東宝は一部の巨匠を覗いてプロデューサーが企画・キャスティングの全権を握り、松竹は監督が企画・キャスティングの主導権を握っていた。俳優はたとえスターでも企画部・演出部の指揮下に位置付けられていた両社と比べ、東映京都ではスターに絶対的な発言権があった」
そのほかおもしろい細部がたくさんあるが、今日はここまで。そういえば、WEBRONZAに書いた高倉健論が昨日アップされて、アクセスが一位になった。へそ曲がりな文章なので批判は多いだろうけど。
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