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2014年12月25日 (木)

『ラブバトル』に見るドワイヨンの純愛

私が最初にパリに行ったのは1984年のことだが、日本で日仏学院などで見ていたその頃までのフランス映画といえば、室内で男女が好きだ嫌いだといいながら、えんえんと会話を続けているようなものが多かった。監督でいうと、モーリス・ピアラ、ジャン・ユスターシュ、フィリップ・ガレル、ジャック・ドワイヨン、アンドレ・テシネといったところ。

ヌーヴェル・ヴァーグ以降に出てきたので「ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれた彼らは、前の世代の革新性をさらに純化させて気の滅入るような日常のドラマを追いかけていた。80年代半ばにそれを一変したのが、ジャン=ジャック・ベネックスやリュック・ベッソン、レオス・カラックスたちの華麗な映像を見せつける映画だろう。

個人的には、その前の世代も忘れられず、彼らの作品が日本で公開されると必ず見た。おもしろいのは、彼らの作品は全く変わっていなかったことだ。どんどん変わっていったリュック・ベッソンたちとは大きな違い。

前置きが長くなったが、3月に公開のドワイヨンの新作『ラブバトル』を見て、その思いを強くした。映画が始まると、ドビュッシーのピアノ曲に乗って、サングラスをかけた若い女が野原を歩いている。ある家に行くと、そこに男がいた。それから2人でえんえんと会話が始まる。

どうも女は父の死を契機に故郷に帰ってきたらしい。そこでかつて気になった男に会いに行く。2人は好きと言うことも、体を求めることもなく、毎日会っては会話を続ける。相手をホメたり、バカにしたり。

もちろんドワイヨンなので、その様子は手持ちカメラの長回しで息遣いまで繊細に見せてくれる。しかし女の姉や友人との会話を挟みながら、何も起こらないまま1時間くらいたつので、私はこれでは普通の観客は退屈しないかと心配になった。

しかし、2人が話す様子をそれぞれ正面からカメラで見せるあたりから、雰囲気が変わってくる。彼らは求め合う。それはあまりにも精神的で、もはや性交を超えて突き進む。森の中の水たまりで泥だらけになりながら、あるいは階段やテーブルの上で相手を傷つけながら。

その姿は次第にギリシャ彫刻のように崇高に見えてくる。愛というのはかくも純粋なものかとガラにもなく思い始めたところで映画は終わる。さすがドワイヨン、相変わらずやってくれましたね、という感じ。考えてみたら男女の名前も出てこないし、彼らが何をしているのかも一切わからない。その純度の高さは見事というほかない。

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