原作から見る『紙の月』
前に映画『八日目の蝉』を見た後に原作を読んでみたら、映画と文学の違いがわかっておもしろかったことは、たぶんここに書いた。今回、同じ角田光代原作の映画『紙の月』を見てから小説を読んだら、実に興味深かった。
私のブログはいわゆるネタバレはあまり気にせずに書いているが、今回は特に映画を見ていない人は見てから読むことを勧める。
一番の違いは、東京からタイに至るシーンだろう。映画を見ると、ラストで宮沢りえ演じる梨花が、突然東南アジアのある街(タイとは明示されない)の喧噪の中に立っている。ああ、逃げられたんだと思うと同時にありえないという気もする。このラストはなくてもいいのではとさえ思った。
原作では冒頭のプロローグに、梨花がタイのチェンマイに立っている描写がある。そこから物語は過去に遡る。既に「結果」を見せてその過程を楽しませる小説らしい手法だ。
映画のラストの前は、梨花がひたすら走るシーン。自分の横領がばれたとたんに銀行の3階の窓に椅子をぶつけて壊し、そこから飛び降りる。そしてひたすら走り出す。そんなことで捕まらないはずはないだろうと思うけれど、梨花のあまりにも懸命な疾走ぶりが嬉しくなる瞬間だ。
だからファンタジーと思えばいい。東南アジアでちゃんと生きている場面も夢物語だと思えば、納得できる気もする。そんなうまい終わり方だ。だから映画はある意味で、ハッピーエンドにできている。
小説は最後に梨花がチェンマイで捕まることを暗示するシーンで終わる。因果応報というのか、落ちるべきところに落ちる感じ。映画の爽快感はなく、むしろ長らく現代社会の闇を覗いていたのがようやく閉じた思いにほっとする。
私はこの映画では、窓を壊してから高校時代の讃美歌が流れる中を梨花が必死で走るシーンが一番よくできていると思うが、これは原作には全くない。原作では、銀行の内部調査のために梨花が10日間の休暇を命じられて、逃げることを覚悟した梨花が夫とタイに旅行する設定になっていて、チェンマイにいることが十分ありうることになる。
そのほか、映画では梨花の不正を見破る真面目な中年女性の上司・隅(小林聡美)の存在が大きいが、彼女は小説に出てこない。ほかにも違いはいくつもあるが、それは(たぶん)後日書く。この映画では、何より宮沢りえの疾走シーンを創造したことが成功につながったと思う。これが「映画的」ということなのだろう。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『目まいのする散歩』を読んで(2024.11.01)
- イスタンブール残像:その(5)(2024.10.06)
- イスタンブール残像:その(4)(2024.10.02)
- イスタンブール残像:その(3)(2024.09.26)
- イスタンブール残像:その(2)(2024.09.24)
「映画」カテゴリの記事
- 少しだけ東京国際:その(2)(2024.11.03)
- 少しだけ東京国際:その(1)(2024.10.30)
- 『破墓/パミョ』を楽しむ(2024.10.28)
- 『ジョーカー2』を堪能する(2024.10.22)
- 東宝のDVDに慌てる(2024.10.18)
コメント