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2014年12月30日 (火)

年末年始の読書:『「肌色」の憂鬱』

忙しいと書いたけれど、やはり一日中学生のレポートや課題を読むと気が滅入るので、気分転換に本を読む。実は話題のトマ・ピケッティ著『21世紀の資本』を買って読み始めたが、何としても分厚すぎる。そのうえ、これまでの紹介や書評で中身はほぼわかっているし。

というわけで、別の本を読みだす。いくつか読んだうちで一番自分の心に響いたのは、眞嶋亜有著『「肌色」の憂鬱』。「近代日本の人種体験」という副題で、明治以降、国際社会において日本人は黄色人種としてどう生きてきたかを探ったもの。

文学者を始めとする芸術家のみならず、政治家、外交官など海外経験を持ついわばエリート層の著作や日記など膨大な資料を駆使して、「肌色」の皮膚を持つ日本人の「憂鬱さ」を追いかけた労作である。いわゆる学術的な著作だけれど、個人的にかなり心を奪われた。

私の場合、大学生の時初めてフランスに行って一年暮らし、「フランスかぶれ」になって戻ってきた。ところが日本にはそういう「フランスかぶれ」が腐るほどいて、彼らを見ていると気持ちが悪くなり、イタリア好きを標榜した。そしてフランスやイタリアに行ってはその国の人のように振る舞いながら、日本人観光客を馬鹿にすると同時に、フランス人やイタリア人の悪口も言ってきた。

つまり自分の中で明らかな矛盾を抱えながら、「憂鬱さ」に目をそらして楽なように生きてきた。昔、中上健二がフランス語を巧みに操る日本の仏文学者に向かって「おまえら、猿みたいだな」と言ったことをどこかで読んだが、自らのいわば「猿まね」の部分に蓋をしてきた。

この本を読むとそのような心性が、日本近代の矛盾そのものだったことがわかる。序章に眞嶋は書く。「日本は国家的存続手段として西洋化を選択したが、日本が日本であるための西洋化には日本を否定せねばならない、自己肯定のための自己否定の意味を含んでいたのである」

それから語られるのは、西洋に渡った日本人たちの「憂鬱な」体験の連続である。内村鑑三、夏目漱石、有島武郎、島崎藤村ら作家のつらい体験から、1920年のパリ講和会議における人種差別撤廃案の敗北やアメリカの排日移民法(1924年)の成立をめぐる政治家や外交官の苦渋の記録。

そして日本人を侮蔑するナチスドイツとの同盟という矛盾。その頃に翻訳されたヒトラーの『わが闘争』が、日本を二流民族とする部分が削除されていたことは、私はこの本を読むまで知らなかった。

そして敗戦後、マッカーサーを歓迎した日本人の変わり身の早さが描かれる。最後に遠藤周作の体験が語られる。遠藤が行った国がフランスということもあって、この章が私は一番おもしろかった。この本については、後日もう一度触れたい。

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