高松次郎の謎へ
最近は、東京国立近代美術館の企画展が抜群におもしろい。始まったばかりで3月1日まで開催の「高松次郎 ミステリーズ」展もこの美術館にふさわしく充実したものだった。
今年は「ハイ・レッド・センター」の年だった。これはハイ=高松次郎、レッド=赤瀬川原平、センター=中西夏之の3人が作ったグループだが、年明けに渋谷区立松濤美術館で「ハイ・レッド・センター展」があった。10月に亡くなったばかりの赤瀬川原平の個展は、千葉市美術館で12月23日まで開催中だ。そして今回の高松展。
高松次郎と言えば、影の絵。白いキャンバスに子供の影がひっそりと映っているだけの、人を食ったような絵を見るたびに、なぜか私は嬉しくなる。ありえないものを見たような、得した気分といったらいいのか。
それと「ハイ・レッド・センター」時代の紐を使ったインスタレーションやパフォーマンスが全く結びつかなかった。それから晩年の模様のような装飾的な絵画があった。これになるとさらにわからなかった。
ところが今回の個展で1960年代後半から70年代にかけてのインスタレーションを見て、ようやくピンときた。高松は人間の生きる空間を私的に(そして詩的に)歪めることで、自由を表現する作家であった。
例えば1967年の《世界の壁》は、影の絵をいくつも組み合わせることで、いくつもの空間を表現する。壁ばかりでなく、床にも張り出す。《遠近法の椅子とテーブル》(1966年)は、あえて遠近法を極端にして作った白い椅子とテーブルだ。
《波》(1968)は、床に置かれた歪んだタイルのような波の模様が並ぶ。その横に《波の柱》(1968)という少し歪んだ柱が立ち、その向こうに《床の弛み》(1969)という皺が目立つ布の絨毯が置かれている。そこあたりの空間に立つと、快い眩暈がしてくる。
そのうえ、高松のアトリエが再現されていて、その高台のような場所からから歪んだ展示品の数々を見渡すことができる。これはたまらない。
だから1980年代の模様のような絵画は、空間の歪みが純化して平面になったものだとわかる。そのエレガントな佇まいは何度見ても飽きない。やはりこの世代はすごい。今度は中西夏之の個展が見たい。
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