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2014年12月17日 (水)

本当のことを言おうか:理論書が読めなくなった

実はだいぶ前からのことだが、ある程度以上の抽象的な理論を中心にした本を読むのが難しくなった。頭がついていかないというか、二度読んでも入ってこない。久しぶりにそんなことを考えたのは、三浦哲哉氏の新著『映画とは何か』を読んだから。

学生の頃は、難解な本が大好きだった。「現代思想研究会」なるものを主宰して、レヴィ=ストロースの『野生の思考』やフーコーの『狂気の歴史』などを友人と集まって読んでいた。もちろんそれは「ニューアカデミズム」が流行っていたからに過ぎないけれど。

難しい本を読まなくなったのは、会社員になってしばらくたってからだろう。とりわけ新聞社に移ってからは時間がなくなって、本は情報を得るためだけのものになり、小説さえもあまり読まなくなった。そして酒の量が増えて、脳細胞がどんどん破壊されていったのではないか。「プチプチ」と切れる音が聞こえる気さえする。

くだらないノスタルジアにならないうちに、話を戻す。三浦氏は1976年生まれの若い映画研究者で、前著『サスペンス映画史』には目を瞠った。外国の巨匠監督たちを「サスペンス」というキーワードで大胆に分析していった本で、その映画史的知識と独自の解釈に唸った。

今回の本は『映画とは何か』という大胆な題名で、副題が「フランス映画思想史」。ジャン・パンルヴェという「科学映画」の監督の分析に始まり、アンドレ・バザンの評論、ロベール・ブレッソンの映画、クリスチャン・メッツの映画記号学、ジル・ドゥルーズの映画哲学に至る。それらフランスにおける映画と思想を貫くものとして、「自動性」という概念が用いられる。

つまりは「リアリズム」ではなく、「自動性の美学」ということらしい。「自動性」=オートマチックという概念はバザンから来たもののようだ。「現実世界」と「想像的なもの」の二元論を超えるものとして位置づけられる。バザンの文章を孫引きすると「外部世界のイメージが人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった」

そしてトリュフォーの映画は「自分自身の人生を映画において現実化する試みだった」「ドワネルに与えられた現実性こそ、バザンのリアリズム論へのトリュフォーの切実な応答だったのではないか」「人生が映画によってかたちづくられ、また映画が人生によってかたちづくられる。その映画と人生の相互に可逆的な関係そのものを営みとして示すこと。バザン以降のフランス映画における最も貴重な主題をそのように言い表わすことができる」

そう来たか、という感じ。そこまではさほど難しくないが、ブレッソンの宗教性のあたりでだいぶわからなくなり、メッツやドゥルーズに来ると本当に難しい。文章は平易で明晰なのに。こちらの頭の悪さを自覚するばかりだが、おわりまで読むと、現代のデジタル時代の分析もあって何となくわかった気分になった。時間をおいてまた読んでみよう。

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