「シャルリー・エブド」襲撃事件に考える:その(1)
1月7日の「シャルリー・エブド」襲撃事件については、既に専門家も含む多くの人が新聞やテレビではなくネットを中心に語っているが、私の率直な意見も書き留めておきたい。この事件が起こった時に私が最初に感じたのは怒りというより、「ああ、とうとうやっちゃたなあ」という感じだった。
犯人の兄弟はアルジェリアからの移民の家族に生まれ、両親を亡くしていたという。パリ郊外の貧しい地区に住む、典型的な移民の子孫のようだ。
フランスは1950年代から70年代にかけての高度成長期に旧植民地から移民労働者を大量に受け入れて、その子孫たちの多くは現在は無職で鬱屈した毎日を送っていると聞く。それはあまり日本で上映される映画では見ないが、フランス映画『憎しみ』(1995)は、彼らを正面から描いていた。
もともとフランスの19世紀の植民地政策が生んだ負の遺産だが、今でも彼らに対する差別は大きいとはよく聞く話だ。就職はおろか、パリ市内だとアパートさえも貸りられないことが多い。
仕事がなく、リッチなフランス人を怨みながら生きているアラブ系やアフリカ系の若者に、イスラム過激派が忍び寄ってきて、「お前たちは悪くない。俺たちを侮辱し差別するあいつらを殺せ!」とささやいたら、思わず乗ってしまう者は多いのではないか。
ましてやネットの時代だ。日本でも格差社会が進んでネット右翼が生まれているが、過激で単純な思想は、差別された側にはわかりやすく、すぐに浸透してゆく。そんな時代に起こるべくして起こった事件のような気がする。
「シャルリー・エブド」はもともと「ハラキリ」という名前の月刊誌だったという。私は1984年に大学生の時に初めてその雑誌を手にして、その時代錯誤な雑誌名に驚いた記憶がある。中には大統領のカリカチュアもあったが、パリの日本人団体客や東京の地下鉄の混雑をからかったものがあって、「ああ、これが差別だな」と実感した。
そのことをフランス人の友人に言うと、「ユーモアだよ、むしろ愛情だよ、表現の自由だよ」と言われた。今回の事件でこのことを思い出した。私はもちろん「自由」は何より大事だと思うけれど、差別された者がからかわれる時の感覚は、「自由」とはなかなか結びつかない。「自由」とは、まず第一に権力に対峙するものだと思うから。
この件については、後日また書きたい。意見や反論がある方はコメントをどうぞ。
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