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2015年1月23日 (金)

戒名についてもう一度

風邪で熱が出ていた時に読んでいた島田裕巳著『なぜ日本人は戒名をつけるのか』についてもう少し書く。なぜ、日本の仏教だけに戒名ができたのだろうか。仏教はインドに生まれたものだ。

「インドにおける仏教は、修行者が釈尊の到達した悟りを目指して修業を重ねてゆくことを基本としていた。修行者たちは出家し、剃髪してサンガに加わったが、みな「沙門」と称し、俗名を使った」「そして在家の信徒たちがサンガの出家者を支えていた」

「インドにおける仏教は、悟りへ到達するという課題を中心に展開していた。悟りに達することによって輪廻から脱する、つまり解脱することがめざされた。そのために、仏教が葬送儀礼とかかわることはなかった」

「戒名という考え方も中国の習慣が下敷きになっていた。実名のほかに字(あざな)を持つという中国の習慣が転じて、戒名が生まれたのだとされている」「中国では出家者に戒名を与える習慣はあっても、死者に戒名を与える習慣は存在しなかった」

日本においては「それまで出家と在家のあいだに引かれていた線が、今度は聖者と死者の間に引かれるようになった」。それまでは、「出家して修業を重ね、悟りを開いた人間が仏であった」。それが「生者から死者へと変化した人間が、仏と考えられるようになった」

「死者を生者から明確に区別するために「戒名」をつけるようになったのだろう」「戒名、過去帳、位牌、法要を組み入れた葬送慣行が確立してきたのは、近世、つまり江戸時代になってかららのことだ」「檀家制度が成立してくるうえで重要な要因となったのが、「寺請制」という徳川幕府の宗教政策である」「寺請制の確立により、仏教が民衆の生活に浸透し、仏教式の葬儀が一般化してゆくことになった」

引用ばかりしてきたが、読んでいると戒名どころか、葬式自体が江戸幕府の恣意的な制度のように思えてくる。東京のマンション暮らしで神棚も仏壇もない生活をしている私には、「檀家制度」も「寺請制」もあるわけがない。だから私が死んでも戒名は必要ないし、葬式もいらない。親しい友人が集まってどんちゃん騒ぎでもしてくれれば十分だ。

この本で驚いたのは、かなり最近まで被差別部落向けの戒名があったこと(「畜男」「革女」など)と、創価学会は1990年代に日蓮正宗と決別後、僧侶なし、戒名なしの「友人葬」をしているという記述だった。「友人葬」とはいい感じ。佐藤優の本を読んだこともあって、創価学会にシンパシーを持った。

どうでもいいが、「死者」と打つと「試写」と出て困った。「試写会」=「死者会」と考えたらおかしくなった。

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