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2015年2月17日 (火)

『神々のたそがれ』の地獄図

3月21日に公開されるアレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』を見た。見たというか、その気持ち悪い触覚や不快極まりない音の連続を感じだというか。「グロテスク・リアリズム」という表現があるが、この映画ほどそれが当てはまる映画を知らない。

映画を見ながら、どこかで見たものを思い浮かべた。ヒエロニムス・ボッシュの人と動物が入り混じったような絵。ラブレーが描く小説のガルガンチュアの大食いの様子。あるいはその小説の挿絵。日本だと「鳥獣戯画」の世界か。

いずれにしてもこんな地獄図は、映画では初めてだった。物語は、地球から離れたとある惑星にたどり着いた男ルマータが、まだ中世期の国アルカナルを巡るというもの。最初はルマータのナレーションが聞こえるのでわかりやすく感じるが、その後の展開は複雑怪奇で3時間近く続く。

これほどにありとあらゆる水分が溢れた映画があっただろうか。いつもどこも雨、川、泥水がいっぱいで、加えて唾、鼻水、糞便、血、内臓などが飛び交う。馬、牛、犬、鶏、小鳥などがあちこちで騒ぎだし、人間の死体も死んだ動物もどこにでも転がっている。

人々は重い鉄の鎧を身につけ、刀やくさりや拷問の道具を振り廻す。それらの金属音が、あらゆる水分の音に混じってガチャガチャと鳴り響く。走り回る子供や老人や小人。それらが画面の上下左右からにゅっと現れては消えてゆく。一応、ドン・レバという親分や医者ブフタなどの登場人物はいるのだが、どうでもよくなる。

確かに汚く気持ち悪い。しかし頭に鱗を塗りたくられた首吊りの死体の群れや、何十人もの人々を鎖でつなぐ鉄板などが現れた時に、ふと奇妙な美しさが浮かび上がる。ルマータの弾く管楽器のジャズが、不思議な精神性を帯びてくる。そして白黒の映像がいつの間にか、フェリーニやタルコフスキーの世界に重なってゆく。

「奴隷制をなくしても結局また生まれてくる。抑圧者は絶えず現れるのさ」といった言葉の一つ一つが哲学的に鳴り響く。これは地球の今を描いたものではないかと急に思えてくる。終盤、「神であることはつらいよ」というこの映画の原題をルマータがつぶやく時、私は監督のゲルマンの姿を思い出した。

1992年、私が係わった最初の映画祭「レンフィルム祭」で、ゲルマン監督は妻でこの映画の脚本も担当しているスヴェトラーナ・カルマリータと初来日した。ギョロ目の巨体で見るからに怖かったが、映画や文学の話をすると、子供のように興奮していた。ほっそりした奥さんがいつも見守っていた。

当時、既に巨匠と言われながら『わが友、イワン・ラプシン』(86)以来何年も映画を撮っていなかったが、その時話していた『フルスタリョフ、車を!』(98)もちゃんと作ったし、さらに究極の遺作まで作った。「つらいよ」と言いながら作り続けた様子が目に浮かぶようだ。

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