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2015年2月 1日 (日)

『シネマの極道』についてもう一度

日下部五朗著『シネマの極道』について、大事なところを書いていないので、もう一度触れたい。これは朝日新聞にも書かれていたが、この本の一番おもしろいのは「8.1973年1月13日」という章。これは『仁義なき戦い』の封切り日だ。

岡田茂が京都撮影所長から東映社長になったのは、1971年。大映が倒産し、日活がロマンポルノに転じた年で、映画人口は2億1千万人と、「わたしが東映に入った年の五分の一に過ぎない」

「鶴田浩二の人気はすっかり衰え、高倉健だって万能ではなくなっていた。……もはや頼みの綱はまだ二十代半ばの<任侠映画の花>、藤純子だった」「その藤純子が岡田さんが社長に就任した直後、四十六年に尾上菊之助との結婚を発表、翌四十七年にわたしがプロデュースした『純子引退記念映画 関東緋桜一家』の大ヒットを最後にスクリーンから去ってしまった」

「そしてこの映画を境に、お客さんの足は任侠映画からはっきり遠のいた。思えば、あの傑作とは言い難い引退記念映画にあれほどのお客さんが詰めかけたのは、お竜さんへの決別のためだけでなく、任侠映画全体への別れの挨拶のためのようであった」

そして『仁義なき戦い』に着手する。飯干晃一からヤクザの手記をもとに書いた「週刊サンケイ」の連載を見せられて、脚本家の笠原和夫と共に手記を書いた美能幸三に会いに行く。遮二無二了解を取りつけて、脚本ができあがった。

「渡邉達人企画部長も一読、「これは笠原さんが書いてきたものの中でも凄いものだよ。……ただ一点、この映画が成功すると、もう任侠映画は作れなくなると僕は思う」/ぎょっとすることを淡々と言った。しかくそれはわたしの思っていることでもあった」

監督を深作欣二にしようと言ったのは、俊藤浩磁。主演は「鶴田、高倉、若山に始まる固定した俳優ヒエラルキーを一気に若返らせようと」、最初は渡哲也を考えたが入院中で菅原文太になった。

「深作欣二は初めての京都撮影所でも全く臆するところなく、川谷拓三や志賀勝、福本清三ら殺され役・斬られ役専門だった俳優たちを文太や弘樹や梅宮辰夫、渡瀬恒彦といったスターと同等に扱って、手持ちキャメラで突進し、追い掛け回し、血糊をぶっかけては、茨城訛りで「ダメだ、もっと前へ出ろ!もっと凄んでみろ!大きく写るぞ!」と発破をかけまくっていた。大部屋俳優たちはいつ殺されるかもしらされぬまま、ここを先途とばかりに弾けてみせた。みんなが――四十二歳の深作欣二も三十八歳の日下部五朗も含めて――、ぎらぎらしていた」

実録路線の始まりが、みごとに活写されていると思う。あの映画の異様な迫力は、やはり若い世代が作り出したものだった。

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