« 東映時代劇のひばりと千恵蔵 | トップページ | 『神々のたそがれ』の地獄図 »

2015年2月16日 (月)

『リトル・フォレスト』に見る映画の終わり

はたしてあれは、映画だったのだろか。『リトル・フォレスト little forest 冬/春』をガラガラの東劇で見てそう思った。森淳一監督は『Laundry』(02)や『重力ピエロ』(09)が好きだったので、期待していた。主演の橋本愛がベルリンでドイツ語で挨拶したニュースもあったし。

人気漫画の映画化らしく、「冬/春」の前に「夏/秋」篇が既に公開されている。例によって漫画も「夏/秋」も見ていない私は、それこそまっさらの気分で見に行った。東北の田舎のおいしい料理が出てくるというのも楽しみだった。

主人公のイチ子(橋本愛)は、「小森」と呼ばれる山奥の一軒家で自分で畑を耕し、じゃがいもや玉ねぎやキャベツを育てる。そしてそれを保存したりしながら、自分の手で料理を作る。まさに自給自足で、理想の生活。加えて、農協などで肉体労働もしている。

彼女には家を出た母(桐島かれん)がいて時々手紙が来る。あるいはキッコ(松岡茉優)とユウ太(三浦貴大)という同世代の友人もいて、時々会う。そうした生活を、主人公のナレーションが説明する。

それだけの話だが、主人公や友人達の生活や何度か出てくる母に全くリアリティがない。都会の人間が畑仕事を体験したり料理教室に出ている感じで、生活感はゼロ。そのうえ、彼らだけが標準語を話すから、東北弁の地元の人々との会話が全く浮いてしまう。母役の桐島かれんに至っては、およそ日本人にさえ見えない。

そして物語がない。観客にはどうでもいいような、主人公の漠然とした憂鬱だけが描かれる。記憶に残るのは、ナレーションつきで解説してくれる料理のレシピくらい。

先日見た『深夜食堂』も少し似た「薄さ」があったけれど、あれはまだ映画だったと今になって思う。『リトル・フォレスト』にあるのは、農業と料理という映像化しやすい「ネタ」だけ。映画に必要な物語とリアリティを決定的に欠いている。

考えてみたら、ちょうど百年ほど前、D・W・グリフィスが中心になって、物語とリアリティを基本に置く映画の原型ができた。グリフィスの最初の作品が1908年で、『国民の創生』が15年。それから90年代以降、インターネットとデジタルの時代になって、映画というものが崩壊しつつあるのではないか。

考えてみたら、東劇では最近、歌舞伎やオペラばかり上映している。この映画もそうしたODS(映画以外のデジタル映像)として考えるべきなのだろうか。田舎の素材を使った地産地消の料理教室の映像と思えば、「映画ではない」と怒る方がおかしい。

もちろん一方では昨日書いた『ザ・トライブ』のような新しい映画も生まれてきている。要するに、今は過度期だろう。

|

« 東映時代劇のひばりと千恵蔵 | トップページ | 『神々のたそがれ』の地獄図 »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/61146370

この記事へのトラックバック一覧です: 『リトル・フォレスト』に見る映画の終わり:

« 東映時代劇のひばりと千恵蔵 | トップページ | 『神々のたそがれ』の地獄図 »