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2015年3月17日 (火)

『ターナー、光に愛を求めて』の新しさ

画家を描く映画は多いが、意外に傑作は少ない。『ルノワール 陽だまりの陽光』も『モジリアーニ 真実の愛』もどこか違うと思った。6月公開の『ターナー』は、何とマイク・リーが監督と聞いて見に行った。

ターナーについては、2013年の秋から翌年の初めまで東京と神戸で開かれた「ターナー展」が圧巻だった。18世紀の風景画家だとは知っていたが、そこで展示された「色彩のはじまり」Colour Beginningと呼ばれる生前未発表の無数の水彩の習作を見て、これはむしろ19世紀末から20世紀初頭のセザンヌやマティスに近いと思った。

今回の映画の一番の新しさは、「歩く人」「見る人」としての画家を描いたことだろう。通常、画家を描くとなると、絵を描く様子を丹念に見せ、できあがった絵そのものを見せる。ところがこの映画のターナーは、ひたすら歩く。

冒頭から、夕暮れを1人で黙々と歩いているターナーの横で女性たちがおしゃべりに興じている。家に着いてそれがオランダなどへの旅だったことがわかる。皮のカバンに白いキャンバス入れと蝙蝠傘を持ってスーツを着て、ターナーは歩く。そしてコートからスケッチ帳を取り出しては何やら描く。

船に乗って何度も通う港町のマーゲイト。そこの宿屋から見える海や船。あるいは嵐の中を船に乗って、マストに括り付けてもらって見る荒波。そんな時に忽然と朝日や夕日に包まれた海が現れる。つまりこの映画はターナーの絵を見せるよりも、ターナーが見たであろう風景を再現することに、最大の力を注いでいる。

ずんずん歩くかと思うと、立止ってなにやら呻く。鼻息と呻きが一緒になったような声で、ほとんどイノシシのよう。絵を描くこと、そのために風景を見ること以外では動物といっていい。そんな画家像を描いたのもこの映画の新しいところだろう。

長年世話をしていた女中には、何も言わずに突然後ろから性交に及ぶ。宿を取る時も偽名を使ったり、司法関係の職だと偽ったり。医者にも正体を隠そうとする。そのくせ、ロイヤル・アカデミーで画家たちを前に奇抜な行動に出たり、女王の批判を陰でこっそり見ていたり。あくまで俗物として描こうとしたところが、庶民派のマイク・リー監督らしい。

主演のティモシー・ポールは、その変人ぶりを見事に演じている。とりわけ何を考えているかわからないエキセントリックな青年画家が次第に年を取って情が厚くなり、優しい老人に変わってゆくさまがいい。

1730年代以降、マーゲイトに通い出してからの後期の作品はだんだん抽象的になって評判が落ちる。もちろんsその理由はいくつもあるが、これについてはもう一度書きたい。コンスタブルやラスキンとの関係、写真術、万国博、そして「色彩のはじまり」など書くことはいくらでもある。漱石との関係についても書かねば。

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