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2015年4月10日 (金)

オリヴェイラが亡くなった

4月2日にポルトガルの巨匠監督、マノエル・デ・オリヴェイラが106歳で亡くなった。去年のベネチアで最新作の短編を見ていたから、少なくとも105歳までは撮っていたことになる。そんなこともあって、この監督は何となく不死身なのではないかと思っていた。

そのうえ、作る映画はいつもどこか不可思議だった。『クレーヴの奥方』(1999)や『永遠の語らい』(2001)のように「ある程度」わかりやすい映画もあるが、『第五帝国』(2004)のように本当にわけのわからない歴史ものも多い。

『永遠の語らい』のように、カトリーヌ・ドヌーヴやジョン・マルコヴィッチ、イレーネ・パパスなどのオールスターキャストのわかりやすい映画でさえも、ラストの爆発のシーンには口をあんぐりという人が多いのではないか。この監督はいわゆる「映画的効果」などは全く気にしていなかったように見える。

この監督の発想は、一言で言えば映画を越えていたと思う。映画らしい映画は、最初の長編の『アニキ・ボボ』くらいではないか。彼の頭にあったのは、演劇であり、文学であり、歴史であり、ポルトガルという国であり、つまりは自分そのもの、あるいは人間そのものだったのではないか。2本目の長編『春の劇』(1963)は、寒村のキリスト教受難劇をドキュメンタリーのように撮影したものだが、ここに彼のすべてがある気がする。

最初にこの監督の映画を見たのは、1985年カンヌの『繻子の靴』。ポール・クローデルの芝居の映画化だが、何と6時間50分。書き割りのような海に浮かぶ船で、登場人物がえんえんと詩を読むような映画だったが、妙にはまった。その年のカンヌでいいと思ったのは、この映画とジーバーベルクの『夜』とフィリップ・ガレルの『彼女は陽光のもとで過ごした』だった記憶があるから、私も若かった。

そして日本で初めて彼の映画を見たのは、1993年冬のポルトガル映画祭で、有楽町朝日ホールでプレミア上映された『ノン、あるいは支配の虚しい栄光』。その時は、監督が初めて来日した。上映後の拍手喝采の時に手を振っていたが、フランス映画社の柴田駿さんが立ち上がってそれを煽っていた姿を妙に覚えている。

ポルトガル映画祭自体は川崎市市民ミュージアムでの開催だったし、この映画はたぶん封切られずに終わった。それからフランス映画社が『アブラハム渓谷』(1993)や『階段通りの人々』(94)などを公開し、『クレーヴの奥方』からはアレシネテランが封切るようになった。この2社が昨年から今年にかけてなくなってしまったのは、まるでオリヴェイラが呼び寄せたかのようだ。

書きたいことはたくさんあるが、最後にひとつ。日経の古賀重樹記者の追悼記事は、蓮實重彦氏の談として「5歳年上の小津安二郎の生誕百年シンポで来日した時は、墓のある鎌倉・円覚寺の階段を元気に歩いたという」で終わる。間違いではないが、その時彼は、帰り道で階段を後ろ向きにぴょんぴょん降り出して、まわりを慌てさせた。実はシンポの参加者で彼だけにはハイヤーを用意して特別な態勢を取っていたが、あえてそれを裏切るようなお茶目な行動だった。みんなの心配顔を見て、いかにも嬉しそうだった。彼は帰りのハイヤーではぐっすりと寝て、それからポルトガル大使館のパーティに向かった。

追悼記事といえば、この日経が7日(火)で、読売に齋藤敦子さんの文章が9日(木)に出た。朝日は来週に出るらしいが、何とも遅い。

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