« ささいな話:その(2) | トップページ | 春休みの読書:『芸能人の帽子』 »

2015年4月24日 (金)

『皆殺しのバラッド』のリアリズム

メキシコの麻薬戦争を撮ったドキュメンタリー『皆殺しのバラッド』を劇場で見た。先日『恐怖分子』を見に行った時に見た予告編が強烈だったし、新聞の映画評でも大きく取り上げられていたから。

やはり映像の力は強い。メキシコの麻薬戦争が凄まじいと新聞で読んでもピンと来ないが、この映画を見るとそれがとんでもないことが、実感としてわかる。

アメリカ国境に面したシウダー・ファレスという都市で、毎日毎日何体もの死体が見つかる。その背後には麻薬戦争がある。警察は現場検証をして証拠を収集するが、それ以上のことはできない。本当の捜査に乗り出せば、自らの命が危ないからだ。

警察官は復讐を恐れて、黒い覆面をかぶって現場に行く。まるで犯罪人のように。実際に最近も3人の警官が殺され、映画の途中でも1人が殺される。あるいは、辞めないと殺すと名指しされた主任は職場を去ってゆく。

殺人現場は、スラムに近いような住宅地が多く、まるで世の果ての街のようだ。そこに家族を殺された男や女たちの泣き叫ぶ声が響く。「警察は何もしてくれない!」

一方で、麻薬取引のボスたちを讃える歌「ナルコ・コリード」が、メキシコ国内やアメリカでヒット中だ。ボスたちは彼らに武勇伝を話し、歌にしてもらってお金を払う。米国各地のコンサートにはラテン系の人々が集まり、異常な盛り上がりを見せる。

映画は警官の1人リチ・ソトと「コリード」の歌手「エドガー」を中心に交互に描く。どちらも見ていていたたまれなくなる。2人の背景には麻薬を消費する米国があり、そこへ輸出するメキシコの麻薬ボスたちがいる。

あえて言えば、この2人が交差しないことがこの映画の弱いところだろう。麻薬ボスを通じて本当はつながっているのだが、別々のものとして見せられる。映画の後半には歴代の麻薬ボスたちの派手な墓をエドガーが訪ねるシーンが写る。その空虚さはスラム街と重なるのだが。

監督は、イスラエル出身でニューヨークに住む報道カメラマンのシャウル・シュワルツ。外国人ジャーナリストならではの自由さと無責任さもある気がした。

この映画を見ながら、去年ベネチア国際映画祭で見たサビーナ・グサンティ監督の「結託」やフランコ・マレスコ監督の「ベルルスコーニ シチリアの物語」を思い出した。ともにベルルスコーニとマフィアの結託を描いた強烈なドキュメンタリーで、こちらはイタリア人が監督だ。どちらも秀作なのに、GWの「イタリア映画祭」で上映されないのは何故だろうか。

|

« ささいな話:その(2) | トップページ | 春休みの読書:『芸能人の帽子』 »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/61478291

この記事へのトラックバック一覧です: 『皆殺しのバラッド』のリアリズム:

« ささいな話:その(2) | トップページ | 春休みの読書:『芸能人の帽子』 »