『ルック・オブ・サイレンス』を再見
6月下旬公開の『ルック・オブ・サイレンス』は、昨年のベネチアで見ていたがもう一度見た。前作『アクト・オブ・キリング』に続いて1965年のインドネシアで起きた100万人の大虐殺をめぐるドキュメンタリーだが、加害者と被害者の対話の細部を日本語字幕で確認したいと思った。
実際に見ると2度目で展開がわかっているので、セリフよりももこの映画全体の醸しだす雰囲気が気になった。主人公ともいうべき、虐殺で兄を殺されたアディが被害者を見つめる視線や、死者たちが流された川の夕暮れの光景などの静かな佇まいが心に刻まれた。
『アクト・オブ・キリング』はある意味で悪趣味な映画だった。かつて虐殺に加わった人々に当時を再現した演技をさせて、それを映画に撮るのだから。今回は、兄を殺された男が虐殺について加害者が語る映像を見たり、加害者に会って話を聞いたりするもの。
基本的にほとんどがアディの視線で語られる。彼は得意そうに殺人を語る人々の映像を見ながら、何も言わない。ただ「見る」だけ。彼は眼鏡屋であり、加害者のもとへは眼鏡を無料で作ってあげるという口実で会いに行く。そしてだんだんと1965年のことを聞いてゆく。
すると相手は険悪な表情になったり、知らないふりをしたり、怒り出したり。アディは何を聞いても相手を非難することはない。そもそも彼が殺されたラムリの弟だと名乗るのは、映画の中盤くらいだ。それまでは観客も含めてあくまで昔の話として聞くことになる。
弟だとわかると相手の表情は変わる。しかし悪は認めない。それを黙って見つめるアディ。ひたすら「見る人」を続けるアディが、被害者にもっと目が見えるように眼鏡を作ってあげようとすること自体がどこか寓話のようでもある。
アディの表情が和らぐのは、年老いた父母と語る時。父は認知症で自分は17歳と信じて歌い出し、母はいまだに加害者を許さないが、それを語らないことを誓っている。あまり出てこないが、2人の子供や妻とのシーンも忘れがたい。子供たちは虐殺を正当化する授業を受け、妻はひたすら心配する。
それより心が休まるのは、大いなる自然。川はゆっくりと流れ、緑に囲まれている。とりわけ何度か出てくる夕暮れの風景が心に残る。そして映画全体に、いつも虫の声が聞こえた気がする。
既に『アクト・オブ・キリング』で言われたように、これはアメリカ人が遮二無二途上国で撮ったある種の暴露映像だ。しかし今回はアディを前面に立てたことで、その視点がより現地の人々に近づいた気がする。わずか50年前のことだが、まだまだ知られざる歴史、きちんと伝えられていない歴史は多いと痛感した。日本にもこんなことはないのかと、ふと思う。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 20年前はイタリア年だった:その(2)(2021.01.18)
- 『チャンシルさんは福が多いね』に思う(2021.01.15)
- 『狩り場の掟』に唖然(2021.01.19)
コメント