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2015年5月29日 (金)

いまごろ見る『わたしのSEX白書 絶頂度』

曽根中生監督の『わたしのSEX白書 絶頂期』(1976)を、いまごろになって初めて見た。日活ロマンポルノの名作として名高いが、機会がなかった。見に行ったのは、見てきたばかりの70代後半の元教授が「すごいよ、ゴダールもロメールもオリヴェイラも全部あるよ」と言ったから。

渋谷のシネマヴェーラでプロデューサーの伊地知啓氏の特集をやってる一本らしいが、こうまで言われたので見に行くことにした。

結果として言えば、それはほめ過ぎだった。まず確実にオリヴェイラはない。彼のように歴史や世界に対峙する人間像は描かれない。ロメールのように、即興的な細部の中に倫理観がきらめくこともない。あえて言えば、初期のゴダールのような、社会に対する無力感や倦怠感は少しだけ近いかもしれない。娼婦が主人公の『男と女のいる舗道』とか。

それでもおもしろかった。1976年という、政治の時代も映画の時代も確実に終わり、大量消費社会が現れる前の何もない雰囲気が濃厚に出ていた。

主人公あけみ(三井マリア)の住む川崎あたりのアパートの雰囲気が何ともいい。近くに川があり、列車や車の音がいつも聞こえる。あけみは病院の採血係だが、その病院は隣で解体工事が行われていて、ガーン、ガーンという大きな音が絶えず響く。

あけみは、向かいに住むヤクザの隼人(益富信孝)と愛人のリリィ(芹明香)とのセックスを覗き見している。それに気づいた隼人は、あけみに売春を手引きする。ますみの弟は予備校に通っているが、友人が入院して重体だ。あけみは給食センターの社長の息子に結婚を迫られる。

隼人とリリィ、あけみと彼女を買う会社員たち、あけみと社長の息子、弟の友人と看護婦、隼人とリリィとあけみなどのセックスが繰り広げられるが、どれも濃厚でリアル。とりわけ丸の内の会社社長との情事はその運転手の男性も一緒になって男性同士の性交も出てくる。あるいは隼人とリリィとあけみは、シネスコ画面一杯に顔が3つ並ぶすごいカットもある。

恋愛というものはない。性欲さえないかもしれない。何の理由もなくただ、人間が交わる。このような境地はゴダールやロメールやオリヴェイラにはない。フランス映画で言うなら、むしろジャック・ドワイヨンとかの後の世代に近いだろう。それにしてもおもしろかった。目黒エンペラーが写ったのも懐かしかった。

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