« ボッティチェルリが文化村に来るなんて | トップページ | 京都の話:その(7) »

2015年5月31日 (日)

フィルムセンターの『瞼の母』

もう既に終わったフィルムセンターの「東映時代劇の世界 Part 2」で見た、加藤泰監督の『瞼の母』(1962)について触れておきたい。今回のシリーズはたったの2本しか見なかったが、前回見たマキノ雅弘の『江戸っ子繁昌記』(61)もこの作品も、見る者を映画にどっぷり浸らせる力を持っている。

今の自分の本業からしたら、新作の試写よりもこちらの特集に通うべきだろうが、なぜか新作を見たくなる。長年マスコミにいた習性か、新しいモノを追いかけるのがどうも止められない。

『瞼の母』を見たのは、たまたま空いた時間があったからだが、実を言うと前から見たいと思っていた。青山真治監督の『東京公園』で榮倉奈々が三浦春馬に「『瞼の母』を知らないの。長谷川伸の、加藤泰の」と言うセリフがあったし。

長谷川伸の名高い戯曲の映画化だが、これで6度目らしい。5歳の時に行き別れた母を探し求める男が、とうとうめぐりあうというメロドラマだが、この映画ではその再会のシーンが長回しとカット割りの見事な組み合わせで表現されている。

主演の中村錦之助(後の萬屋錦之介)演じる番場の忠太郎は、江戸中を探し回ったあげくに、料亭の女主人おはま(小暮実千代)を訪ねる。忠太郎の大げさな感動ぶりを、不審に思ったおはまは最初は邪険に扱う。息子だと気がついて動揺するが、それでもお金めあてだろうと考える。それにショックを受けた忠太郎は「もういい」と去ってゆく。

室内の2人だけを撮った15分ほどの長いシーンだが、忠太郎がにじり寄ったり、怒って反対側を向いたり動き回るのをカメラは長回しで捉える。かと思うと、おはまの表情の変化がアップで入る。後半は襖の方を向く忠太郎と、恥じ入って目を落とすおはまの会話だが、忠太郎の「上下の瞼をぴったり合わせりゃ、絵を描くように出てきたものを、ここでもって消してしまった」というセリフが響き渡る。

そして出て行った忠太郎を探しに行く母と妹(大川恵子)を、草葉の陰で黙って泣きながら見る忠太郎の場面で映画は終わる。

この感動のシーンに伏線がいくつかあって、まずは子分の半次郎(松方弘樹)が母親(夏川静江)に会うのを忠太郎が羨む場面。次に街で出会う老婆(浪花千恵子)を母ではないかと勘違いするが、違う。あるいはおはまの幼な馴染みの夜鷹のおとら(沢村貞子)。浪花や沢村を優しく描いているだけに、その零落ぶりが身に沁みる。

個人的には中村錦之助も小暮実千代も濃厚すぎて苦手だが、それでもこの再会は映画史の名場面だろう。

|

« ボッティチェルリが文化村に来るなんて | トップページ | 京都の話:その(7) »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/61636787

この記事へのトラックバック一覧です: フィルムセンターの『瞼の母』:

« ボッティチェルリが文化村に来るなんて | トップページ | 京都の話:その(7) »