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2015年7月 3日 (金)

古典に驚く:その(3)『映画とは何か』

アンドレ・バザンの『映画とは何か』は、小海永二訳の4巻本を持っていた。1984年にパリに留学して原著を文庫で買った私は、翌年帰国してからこの翻訳を少しずつ揃えた。確か3冊は普通に買えたが、1冊は絶版で早稲田の古本屋で買ったと思う。

実を言うと、それからきちんと読み直したことがなかった。今回、岩波文庫で野崎歓他訳の2巻本が出たのでさっそく買って読んだ。文庫なので持ち運びに便利だし、何よりも翻訳が読みやすい。

当時はあまり映画を見ていなかったからどうもピンと来なかったが、今読むと実に納得するところがあちこちにある。一番驚いたのは、「映画言語の進化」という文章。

「デクパージュ(カット割り)の観点から見た場合、映画の歴史はサイレントとトーキーのあいだで、一般におもわれるほどはっきりとした断絶を示していない。むしろ、1925年ごろの監督たちと、1935年ごろの監督たち、とりわけ1940年から50年にかけての監督たちのあいだに類縁関係を見いだすことができるだろう」

こう書いて、シュトロハイム、ジャン・ルノワール、ウェルズ、ドライヤー、ブレッソンの名を挙げる。これらは「映像を信じる監督」ではなく、「現実を信じる監督」という点で共通点があるという。少し後でムルナウやフラハティの名前も足される。

「フラハティは私たちに、ナヌークが待っている様子をひたすら示すのみである。狩りの待ち時間は映像の実質そのものとなり、その真の目的となる。ゆえに作中で、この場面はワンショットで撮られている」

「彼(ムルナウ)の構図はいささかも絵画的でなく、現実に何も付け加えず、現実を変形することもない。そではなく、現実から奥深い構造を引き出そうと努めるのみであり、ドラマに先んじて存在していた個々の関係性を明らかにしようとするものである」

「彼(シュトロハイム)の場合、現実はあたかも啓示の倦むことのない訊問を受けた容疑者のごとく、その意味を白状する。彼の演出の原理は単純である。世界を間近から、執拗に見つめることで、それがついに残酷さと醜さを露呈するに至らしめるのである」

私はこれまでムルナウやシュトロハイムやドライヤーのサイレント映画の尽きせぬ魅力についていつも考えていたが、こう簡単にまとめられてびっくりした。そしてこれがウェルズやワイラーやルノワールやロッセリーニの40年代の仕事につながるというのだから。

「1930年代から40年にかけてほとんど完全に覆い隠されていたシュトロハイム=ムルナウ的傾向を、おそらくこの十年来の映画は多かれ少なかれ意識的に取り戻したのである。ただそうした傾向を引き継ぐだけでなく、そこに者が物語のリアリズム的再生の秘密を組んでもいる。物語はふたたび、物事の現実的な時間、出来事の持続を組み入れることができるようになっている」

大学で何年も映画を教えているのに、今頃になってこんなことに驚いているのは本当に恥ずかしいが、事実だから仕方がない。バザンのこの本についてはあと2、3回は触れたい。

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