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2015年8月21日 (金)

『この国の空』への違和感

荒井晴彦監督の『この国の空』を劇場で見た。もしこれを試写で見ていたならば、ホメたかもしれない。戦時下の女性たちの生き方を、抑制の効いた表現で丁寧に撮った映画として、試写室のクロウトたちは絶賛するだろうから。

ところが劇場で見ると、お金を払っているという事実以上に、クロウトではなく一般の観客寄りの見方になる。当然ながら、アラ探しもする。そうして見た時に、この映画には違和感を覚えた。

1つは、戦時中に思えないというもの。もちろん、声を荒げて非国民だ隣組だと騒ぐばかりが戦時下ではないだろう。戦時中にも酒を飲んだり贅沢をした人もいただろう。けれど、母と娘の2人暮らしなのに生活に困っていないし、焼き出された姉もころがりこんできたにしては暢気すぎるし、とにかく食事が豊富過ぎやしないか。

娘の里子(二階堂ふみ)の職場もずいぶんゆったりしているし、隣に住む銀行員の市毛(長谷川博己)も何だか暇そうで危機感がない。平屋が並ぶ感じはセットとは思えないほどいいのだけれど。たぶん戦時中も日常は続いていたと言いたいのだろうが、何か違う気がした。

もっと気になったのは、その「文学的」表現だ。男と関係を結ぶ前に取ってきたばかりのトマトを食べさせるシーンに代表されるような、隠喩的表現が多い。これが活字だと想像するのでおもしろいが、あまり見せられるとどうだろうか。

母(工藤夕貴)が雨に気づいて「いいおしめり」と言ったり、川の前で娘に「女はおぼれやすいのよ」と言ったり。あるいはトマトを「食べてください」差し出す里子に市毛は「明日食べる」と言うが、「今食べてください」と迫る。言葉のあちこちに性的隠喩が溢れている。そして最後の里子のストップモーションに続いて、「里子は私の戦争はこれから始まるのと思った」という言葉で終わる。

それでも鬱屈を内に抱えた硬い感じの二階堂ふみは良かった。性交の後に体を洗うシーンの後姿もぞくっと来た。母役の工藤夕貴とその姉役の富田靖子も矛盾を抱えた女性を演じていて自然だった。かつて有名だったのに、その後どこかぱっとしないふたりにぴったりの役だった。

長谷川博己がいきなり挿入するシーンもそうだが、全体にマッチョな発想がないだろうか。女は誰でも欲情する、といった感じの。それは荒井氏が脚本を書いた『赫い髪の女』(79)や『遠雷』(81)あたりから一貫したものかもしれないが。今の自分には、これも気になる。

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コメント

今日の朝日夕刊で、荒井監督に不満をぶつけるというインタビューを載せてます。古賀さんの違和感とは視点が違いますが、ご一読ご批判をいただければ!

投稿: 石飛徳樹 | 2015年8月21日 (金) 10時10分

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