『黒衣の刺客』再見
ふっとあいた時間に、ホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』を映画館で見た。8月半ばに試写で見ていたが、よくわからなかったので、もう一度見ようと思った。結論から言うと、傑作だがやはりわからなかった。
見ながらいろいろなことを考えた。一番に考えたのは、マノエル・デ・オリヴェイラの『アンジェリカの微笑み』のこと。同じくわからない映画だが、そのベクトルは全く逆方向だ。ホウ・シャオシェンは、まず筋がわからない。とりわけ今回の『黒衣の刺客』は、いろいろな家系の多くの人々がどんどん現れて、文字で説明されるが、全部記憶することは不可能に近い。
他方、『アンジェリカの微笑み』の筋は簡単だ。ところがあちこちに謎のショットや細部が埋め込まれている。そして登場人物が何を考えているのか全くわからない。すべては世界の運命のなすがままに、放置される感じがする。
『黒衣の刺客』でも、登場人物が何を考えているのかは表立っては描かれない。しかし、ちょっとした視線や動作にそれは現れ、見ているうちに強い渦が巻き起こってくる。最後までその感情の中身は明らかにはならないが、抽象化された激情の強度は画面に満ちてゆく。
今回2度目に見てわかったのは、スー・チー演じる主人公の隠娘がいかに殺そうとした田李安(チャン・チェン)を愛していたかである。いつの間にか近くにすっと立っていて、するりと逃げる。殺すべき瞬間にも立ち尽くし、いなくなる。
その一方でスー・チーは磨鏡少年を演じた妻夫木聡の前では、武装を解く感じ。半分肩を見せて、ケガをした背中に薬を塗ってもらう。その官能性。そしてラストで妻夫木と一緒に歩く時に、たぶん初めて笑顔を見せる。「新羅に送ってゆく」というセリフがあったが、そのまま日本までくっついていってしまったに違いない。そのように見えた。この2つの愛の違いが、今回は鮮明に見えた。
もちろん山や川や木々や室内のろうそくなどの美しさは、筆舌に尽くしがたい。これはオリヴェイラはあえて狙っていない。ありのままの世界の姿を、ごろりと見せるだけ。
ところで、この映画は松竹が日本の撮影に協力しているが、製作には参加していない。もともとは参加予定だったが、社内の都合で止めたらしい。妻夫木の場面が少なくなったのはそのためらしいが、惜しいことをしたと思う。彼が遣唐使であることがきちんと説明されていたら、さらに重層的な物語になっていただろう。そして日本が誇る国際合作になっていたのに。
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