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2015年9月13日 (日)

映画以外のベネチアの話:その(2)

もう受賞結果は出ているが、あえて違う話を書く。ベネチア国際映画祭は、もともと1895年に生まれたベネチア・ビエンナーレという国際現代美術祭の映画部門だ。全体を統括するベネチア・ビエンナーレ財団は、これまでの資料を集めたアーカイヴをベネチア郊外に持っている。

サンマルコ広場から鉄道駅の先のローマ広場が、自動車の乗れる起点となる。そこからバスに乗って20分ほど行った倉庫街に、そのアーカイブはあった。

実は4年前にも行ったことがある。1938年に出品されて民衆宣伝大臣賞を取った『五人の斥候兵』と1951年に金獅子賞を取って戦後日本映画が海外に出る契機となった『羅生門』関係の資料を見に行った。

驚いたのは、年ごと国ごとにファイルがあって、Giapponeと書かれた日本のファイルを見ると、手紙やテレックスのやり取りがすべて保存されていることだ。フィルムの通関証明書や名刺、メモ書きやパンフレットなど何でもある。

前回は、『羅生門』が出品される過程を主に調べた。黒澤本人も言うように、ストラミジョーリというイタリア女性が活躍したことがよく知られている。しかし彼女と映画祭、あるいは映画祭と映連や日本のイタリア大使館などのやり取りを見ると、そう簡単ではないことがよくわかった。

それでも『羅生門』の時の交渉の中心はストラミジョーリ。ところが1952年になると一変する。『羅生門』が金獅子賞を取って欧米各国に配給された翌年で、日本側は積極的になる。ストラミジョーリの助けを借りずに日本の映連は2月頃から3本を出したいと直接打診するが、映画祭は1本と返す。ローマの日本大使館も「ぜひ3本を」と援護。

結局日本側は『西鶴一代女』(新東宝)と『長崎の歌は忘れまじ』(大映)を送る。両方の通関証明書まである。ところが、コンペでもどこでも『長崎の歌は忘れまじ』は上映されていない。日本側はたぶん上映されたと思っていただろう。結果として『西鶴一代女』は国際賞を受賞したので、良かったが。

こうしたやりとりがすべて残っているのはすごいことだと思う。これらの資料を見るのは事前のアポが必要だが、無料で誰でも見られるし、コピーも取ることができる。東京国際映画祭にはこうした資料は保存されているのだろうか。このアーカイブは、また再訪することになると思う。

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