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2015年9月 9日 (水)

日本映画の出ないベネチア:その(5)

イタリア映画は大丈夫かと心配になるようなコンペの2本を見た。どちらもフランスが製作の中心でイタリアが舞台なのに外国語が大半を占める。「ビッガー・スプラッシュ」The Bigger Splashはスタジオ・カナルの製作でほぼ全編英語、「待つ」L'attesaは、パテの製作で半分以上がフランス語。

「ビッガー・スプラッシュ」は日本でも『ミラノ、愛に生きる』が公開されたイタリアのルカ・グァダニーノが監督。『ミラノ』と同じくティルダ・スウィントンが主演で、フランス映画『太陽が知っている』のリメイク。

かつてロック歌手として活躍したマリアンヌ(ティルダ・スウィントン)は、島でポールと夏を過ごしている。そこにマリアンヌのかつての恋人のハリーがマリアンヌとの娘を連れて現れる。ハリーはマリアンヌとよりを戻そうとし、その娘はポールを誘惑する。

筋はおもしろいが、とにかく映像も音楽も悪趣味のオンパレード。いかにもといった思わせぶりの映像とそれを盛り上げる音楽が続いて、見ていて疲れた。その悪趣味を最後まで押し通す馬鹿力のような魅力はあるけれども。

それに比べて、ピエトロ・メッシーナ監督の第一回長編「待つ」ははるかにセンスがいい。ところが1つ1つのシーンに凝り過ぎて、全体として映画が流れて行かない感じがした。舞台はシチリアで、葬式から始まる。悲しみにくれるアンナ(ジュリエット・ビノッシュ)のもとに、亡くなった息子のジュゼッペの恋人ジャンヌが現れる。ジャンヌはジュゼッペに誘われて来たのだが、アンヌはその死を切り出せない。

アンナはフランス人でイタリア人の夫と離婚しており、ジュゼッペはパリでジャンヌと出会うという設定。アンナとジャンヌのフランス語の会話から、それぞれの過去が浮かび上がる。

もともと何も起こらない内容のうえ、長いショットや固定ショットが多くて見ていて疲れる。それでもたくさん映画を見ていることが明らかな凝った映像は、見ていて心地よい。私はビノッシュが復活祭の群衆の中を一人で歩く姿に、ロッセリーニの『イタリア旅行』を思い出した。外国人妻という設定も極めてロッセリーニ的だ。いささかまとまりは悪くとも、このような新人監督をコンペに入れるのは悪くない。

そんなことを考えていたら、コンペでマルコ・ベロッキオ監督の「私の血の血」Sangue del mio sangueを見て驚いた。その映像や思想のレベルの高さは、今回の映画祭ではソクーロフと双璧だろう。17世紀の修道院における魔女狩りのような処罰と、現代のイタリアが突然結びつく。

2つの時代が何の説明もなくつながっているが、映像の感覚としては理解できる。そして随所に官能的な音楽が思いきり鳴り響く。ボッビオという北イタリアの村を舞台に、キリスト教の欺瞞を暴き、現代の退廃を描く。わかりにくい映画だが、後半に進むにつれて震えが来るほどの充足感が訪れる奇跡のような映画だ。

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