初めて『野火』を読む
大岡昇平の『野火』を初めて読んだ。この作家は、『レイテ戦記』や『武蔵野夫人』をずっと前に読んだはずだが、一番有名なこの小説は読んでいなかった。読んだのは、この夏に塚本晋也監督の映画があったからだろうか。
どこかの本屋に平積みになっていた文庫を買った。塚本版の映画の方は、去年のベネチアで見ていたのだが、原作を読もうという気にならなかった。
実を言うと、あの映画には違和感があった。映画全体にはものすごい迫力というか熱気が充満しているが、途中から、塚本監督得意のユーモアのあるスプラッタを取り入れたところが、どうも気になっていた。それから取ってつけたようなラストも、映画としてはいらないように思えた。
原作にはそうした要素はあったのだろうかと思っていた。今回ようやく読んでみると、映画のラストに近いものはあった。小説の最後に「狂人日記」と題された部分で「私がこれを描いているのは、東京郊外の一室である」というくだりから始まる。6年後の話のようだ。
さらにその後に「再び野火に」として、「もっともこの手記は元来、医師の薦めによって始められたものである」という小説自体の成り立ちへの言及がある。さらに「死者の書」として、死後の世界が描かれて、それが戦時中の風景や心象に重なってゆく。
「或いはこれもすべて私の幻想かもしれないが、私はすべて自分の感じたことを疑うことができない。追想も一つの体験であって、私が生きていないと誰が言える。私は誰も信じないが、私自身だけは信じているのである」
これは小説ならではの見事な結末だ。小説自体が、この幻影の感覚に覆われていると言えるだろう。だから読んでいても、なかなか進まない。「糧食はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた」
「死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、さまざまの元素に分解するであろう。三分の二は水からなるという我々の肉体は、大体は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう」
だから、現地の女性を殺しても、戦友からもらって人肉を食べても、あまりショッキングではない。すべては幻影のように見えるから。そして「狂人日記」にこんな一節がある。「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。作家は、この一言を書きたかったように思える。私には塚本版の映画より、ずっとおもしろかった。市川崑版の映画も何十年も見ていないので、見てみたい。
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