アプラ氏の映画原理主義について、もう一度
イタリアの映画評論家、アドリアーノ・アプラ氏について書いたら2つもコメントがあったので、もう少し書きたい。私が彼と最初に会ったのは、2000年のベネチア国際映画祭だと思う。2001年の「日本におけるイタリア年」では、新作集と名作回顧上映の2つをやりたいと、私の方から東京のイタリア大使館に提案していた。
イタリア側で協議の結果、名作回顧上映については、フィルムセンターにあたるローマのチネテーカ・ナチオナーレがパートナーとなることになり、そのトップのアプラ氏とベネチアで会うことになった。
ヴィスコンティの『ベニスに死す』で有名な今はなき「ホテル・デ・バン」で19時に待ち合わせたところ、たまたまその夜そこの「ヴィスコンティの間」でイタリア映画輸出協会の夕食会が開かれるとのこと。その場で招待されたので、これは好都合とそこに参加しながら同じテーブルで打ち合わせをすることになった。
夕食会では、いろいろな挨拶があったが、アプラ氏は見向きもしない。自分が用意してきたイタリア映画のベスト50本について、1本ずつ解説し始めた。だんだんお腹が空いたので、ブッフェに行こうと提案するとしぶしぶ同意したが、まだ前菜だけだったので、サラダ類を少し取ってまたテーブルへ戻る。
「『暗殺のオペラ』は日本で何度も封切ったので」などと私が言っても、ほとんど聞かずに彼の解説は続いた。途中でベルナルド・ベルトルッチやマルコ・ベロッキオがアプラ氏に挨拶に来た時は、さすがに解説を止めたが、握手をして「あなたの映画はこれを入れたけど、いいよね」とニコリと同意を求めて、また解説が続く。
2時間くらいたってようやく解説が終わったら、客の半分はもういなかった。2人で食べるものを取りに行ったら、ほとんど残っていない。しかたがないので、ホテルの庭に出て、そこで待っていたアプラ夫人と合流して酒を飲んだ。すると、「言い忘れたことが」とまた解説が始まった。奥さまは、それを苦笑いしながら聞いていた。
それからアプラ氏とはローマで3回は会ったし、2001年10月に来日した時は、ほぼ1週間一緒にいた。ところが先日山形で久しぶりに会って挨拶すると、何と私のことを全く覚えていなかった!いろいろ説明して、ようやく思い出したけど。さらに東京で講演会の後の夕食会に参加しても、私のことはどうでもいいようで、ストローブ&ユイレについて猛然と語っていた。
私などは議論の相手にはならない取るに足らない存在だったことはわかるが、「人間よりも映画を」という映画原理主義を見たような気がした。幸か不幸か、同じ映画好きでも私はそうはなれなかった。
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