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2015年10月21日 (水)

山本義隆『私の1960年代』に考える

本屋で手に取って珍しくすぐに買ってしまったのが、山本義隆著『私の1960年代』。山本氏は知る人ぞ知る元東大全共闘議長だが、その後書いた多くの科学史の本でも知られている。彼は東大理学部物理学科の博士課程を中退して、予備校教師をしながらこれらの本を書いた。

5年前に私の大学の学生が企画した映画祭「1968」で、日大全共闘の方々と初めて会ったが、彼らの多くは今はいろいろな仕事をしながらも反原発運動などに係っていた。つまり、学生時代の志を40年以上たってもどこかに持っていた。

山本氏はアカデミズムに入るのを拒否して、大学の科学教育そのものを問い続ける本を書いてきた。私は彼の科学史の本は読んだことはないが、『福島の原発事故をめぐって』を読んで日本の科学と権力の結びつきを改めて考えたことは、ここでも書いた。

この本は講演をもとにしたらしく、彼が1960年代に何をしていたのかが、「ですます」調でわかりやすく細かに書かれていて読みやすい。彼がこの本を出すことにした経緯は「おわりに」に書かれている。

「原発にたいしては、ときに反対の見解を表明してきましたが、しかし3.11の福島を防ぐこともできず、そればかりか、今や戦争とファシズムの前夜のようなことになってきています。
私たちは若い頃、戦前の人たちにたいして、なんであんな日本の戦争やファシズムを止められなかったのかと言ってきました。おなじことを私たちは、今の10代や20代の人たちに言われるのではないかと、正直、思っております」

全共闘世代がこういう思いをしているのには、ちょっと驚いた。本当にところは、その後に何も考えずに社会の歯車そのものとなった私を含むその後の世代の方に責任はあるはずなのに。

この本を読んで学んだことはいくつかあったが、「あっ」と思ったのは、山本氏が日大全共闘を高く評価していることだ。

「本当の意味での「全共闘」を作り上げたのは、日大です。これは文句なしにそうです。1968年6月に闘争が始まって以来、きわめて短期間に、学部ごとに強力な行動隊を組織しただけでなく、11学部で事実上11個の大学があると称される超マンモス大学の全学的な司令塔として情報局を形成した力量は瞠目すべきです」
「日大闘争は、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限に発揮せしめた闘争であり、その意味で掛け値なしに戦後最大の学生運動で最高の学園闘争だったと思います。ほんと、すごいです。いまでも涙が出てきます」

今の日大を考えると、信じられない。そのほかこの本には、山本氏が書いたガリ版刷りのビラがいくつも収録されていておもしろい。丸山真男批判も痛快だった。学生時代の怒りを一生忘れないことについて、改めて考えさせられた。

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