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2016年1月 4日 (月)

年末年始の読書:『日本映画史110年』

四方田犬彦著『日本映画史110年』は2014年に出た新書で、もともと2000年に出た『日本映画史100年』の改訂版だ。その時に読んでいたが、今回確認したいことがあって改訂版を初めて読んだ。さすがに才人の四方田さんらしい斬新な指摘が溢れている。

感じとして言うと、加藤周一の『日本文学史序説』に近い気がする。つまり従来の映画史や文学史にこだわらずに、より広い思想史的な観点から見直している。だからどちらもまるで外国人が書いた本のようにさえ見える。

例えば序論で日本映画のハイブリッド性を論じるにあたって山中貞雄の『人情紙風船』を取りあげ、原作が河竹黙阿弥の『梅雨小袖昔八丈』という歌舞伎でありながら、「だがそれは登場人物の設定を借りたというだけのことで、実はジャック・フェデの『ミモザ館』が換骨奪胎されて隠されている。全体の雰囲気はゴーリキーの『どん底』を意識して踏襲したところがあり、映画のジャンルとしてはグランドホテル形式が採用されている」と書く。

これがすべて本当かわからないが、とにかくこう書かれるとカッコいい。彼は同じく序論に日本映画の頂点が2つあると書く。「第一回目は1920年代後半から1930年代にかけて、第2回目は1950年代から60年代後半である」

これまでの日本映画史は、こうしたメリハリをつけることをしてこなかった。どの時代もそれなりに頑張ったという感じで書かれていた。確かに一回目は溝口、小津などが自分のスタイルを確立させた時期で、二回目は黒澤、溝口が海外に出て、増村、今村、大島らが続々と現れた時代である。70年代や80年代とは比べものにならない。

こうしたわかりやすい解釈は随所に見られる。日本映画初の完全なトーキー映画『マダム女房』(1931)を「ジャズに代表されるアメリカの都会的モダニズムへの庶民的な関心が、最新流行のトーキーとあいまって、おおらかに肯定されている。ちなみに日本の伝統と西洋のモダンの双方をよしとするこの姿勢は、おそらく数年後には困難になっていただろう。のちに述べるが、1937年の『新しき土』では、文化ナショナリズムの台頭により、西洋は排撃の対象とされるにいたった」

たぶんこれに対しては1930年代後半の映画をいくつか挙げて、反論することは可能だろう。しかし大事なのは、歴史を書くということはこうしたメリハリを自分なりにつけてゆくことなのだろう。その意味でこの本は示唆に満ちている。

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