新聞は大丈夫か:その(2)リベットさん
この29日にジャック・リヴェット監督が亡くなった。フランスのネットに出たのが、日本時間で29日の夜20時頃だから、30日の朝刊に出るかと思ったが、「朝日」は夕刊だった。それはいいとしても、問題は「ジャック・リベットさん」と書かれていたこと。
何だかいやな感じがした。あの謎めいたリヴェットが、急に平べったくわかりやすくなった感じ。そのうえに「ヌーヴェル・ヴァーグ」ではなく、「「ヌーベルバーグ」の担い手」である。まるでコンビニのハンバーグみたい。ネットで調べてみると、「読売」も「リベット」表記のようだ。
私も新聞社に勤めていたので、日本の新聞は「ヴ」ではなく「ブ」にするという規則があるのは知っている。例外は正式な抗議があった「ヴィトン」のみということも。配給会社は映画評を書いてもらう新聞記者に頭が上がらないから(広告費を払っているのに)、抗議はしない。
かくしてヴィスコンティはビスコンティになる。一番かわいそうなのは、ビム・ベンダースと書かれるヴィム・ヴェンダースだろう。これではまるで妖怪人間だ。
新聞側の論理は、一般に「ヴ」表記はわかりにくい、というものだろう。しかしその判断こそ読者を舐め切っているのではないか。1980年代くらいからは、「ヴ」表記は確実に社会に定着している気がする。
さて、リヴェットに戻ると、この監督は本当に謎だった。目的も理由もわからないままに、仲間と敵が入り混じって陰謀と画策が渦巻く。それは最初の『パりはわれらのもの』(1960)から、遺作の『小さな山のまわりで』(2009)まで一貫していた。
しかしそのタッチは、歴史ものになっても超リアル。『美しき諍い女』のミシェル・ピコリが、全裸のエマニュエル・べアールを前にデッサンをする時の「カリカリ」という音。あのヒリヒリする触覚を考えると、ジャン・ルノワールの本当の弟子は彼だけだったと改めて思う。それは映画と演劇の関係という点でも当てはまる。
日本では長い間見ることができなかった。1980年代半ばまでは、日仏学院でときおり『北の橋』が上映されていたくらいではないか。ところが『美しき諍い女』(1991)のヒットあたりから、過去の作品もどんどん公開されていった。『美しき諍い女』以外は当たった映画はなかったはずだが、なぜか新作も公開されていった。
昔、ジャック・リヴェットを日本に招待しようとしたことがあった。1996年にジャン・ルノワールの全作品を上映した時のゲストとして。パリのカフェで、目の前でジャン・ドゥーシェ氏が電話してくれた。「ルノワールのためでもダメか?」「そうだ。すまない、ジャン」という返事だった。
リヴェットについてはもう一度書きたい。一か月ほど前にフランスから買ったばかりの2K版『アウト・ワン』ボックスもまだ見ていないので。
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