『禁じられた歌声』を見るのは現代人の義務である
今年最初に映画館で見たのは、フランス=モーリタニア映画の『禁じられた歌声』。去年6月の「フランス映画祭」で『ティンブクトゥ』の題で上映されたアブデラマン・シサコ監督の映画だが、見終わって、これを見るのは現代人の義務だと思った。
舞台はアフリカのマリのティンブクトゥという街で、そこで生活を楽しむ人々がよそから来たイスラム過激派によって弾圧される話である。つまりイスラム教徒のアフリカ人同士が争うという内容で、一見日本人にとっては限りなく遠い物語に見える。
イスラム過激派はアラビア語を話すため、タマシュク語を話す住民とは通訳が必要だ。時おり、両者がカタコトの英語や仏語で話すこともある。外見はみな同じように見えて、ほとんどバベルの塔状態。
過激派は、夜中に音楽を演奏して歌っていた若者たちを鞭打ちの刑にする。ある過激派の男は、歩いている少女を見かけて、俺と結婚しろと強制する。その一方で自由な恋愛をした若い地元の男女は顔だけを出して生き埋めにされて、石を投げられる。少年たちはサッカーを禁じられて、ボールなしでサッカーをする。
こう書くと滅茶苦茶なのだが、カメラはあくまで両方を対等に撮り、過激派の人間的な弱い部分もきちんと見せる。そして何より、苦しむ民衆たちが、ロングの長回しで丁寧に撮られている。例えば40回の鞭打ちの刑を受ける若い娘が、体を打たれながら「古いしきたりをやめて」と歌い出すシーンを、思わず美しいと思ってしまう。
まさに映画ならではの美しさを味わいながら、見ることの倫理を問われているような奇妙な感じに陥ってしまう。パンフレットで国際政治学者の高橋和夫氏の解説を読んで、納得した。ティンブクトゥがイスラム過激派に占領されたのは、欧米の軍事介入でアルジェリアやリビアで「アラブの春」が起きて、旧政府軍の武器が大量に流失したからという。映画でも武器を持った過激派がTOYOTAと大きく書かれたミニトラックに乗って、黒い旗を掲げて街を走るシーンが何度も写る。
TOYOTAはともかくとしても、日本とつながるアメリカを始めとした欧米諸国の介入が、平和に暮らすマリの人々の生活を一変させたのだ。カメラは何も説明しないが、その向こうに大いなる真実が横たわっている感じは、見ているとどこからか伝わってくる。
武器を持つとすぐに威張り出すくらい人間は弱いが、弾圧されてもそれぞれがなんとか抵抗の方法を見い出してゆくくらい、人間は強い。とてもアフリカの遠い話ではない。携帯電話の電波が届くかどうかが、終盤には重要になってくるが、これまた日本でもよくあること。
昨日、イランとサウジアラビアという2つのイスラム教国が国交を断絶するというニュースがあった。今朝の新聞だとサウジに、バーレーンやスーダンも同調するらしい。いろいろな意味で、現代に生きる我々はこの映画を見なければならない。
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コメント
明けましておめでとうございます。
現代人が見るべき作品といえば、先月12日に公開された『独裁者と小さな孫』もそれに値しますね。サイクリストの風刺描写、サイレンスの音色の訴え、ガンダハールの過酷さ、全てが相まってマフマルバフが訴えかける傑作でした。
投稿: さかた | 2016年1月 6日 (水) 20時42分