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2016年1月29日 (金)

林芙美子のパリ

たまたま本屋で見つけて買ったのが、岩波文庫の林芙美子著『下駄で歩いた巴里』。林芙美子という作家は、映画好きにとっては成瀬巳喜男監督の『浮雲』や『放浪記』などの傑作の原作者というイメージが強い。それらの映画は戦後作られたものだが、林芙美子自身は戦前から活躍していた。

1903年生まれの彼女は、1930(昭和5)年に『放浪記』がベストセラーになる。そのお金でその年に、満州や上海に旅行する。さらに翌年11月にはハルピンからシベリア経由でパリに行き、8か月も滞在する。「林芙美子紀行集」と副題に書かれたこの本は、中国やパリへの旅行が中心だ。

驚くのは、昭和5年や6年に27、8歳の若い女性が、実に能天気に貧乏旅行をしていることだ。この旅行記を読む限り、いつも列車は2等や3等だし、そもそもパリに行くのに帰りの旅費も持っていない。『放浪記』を出した改造社に何度も電報を書いてようやくお金が送られてくる。

「北京はほんとうにいい処だ。山海関と同じように砂塵の多いのには閉口だったが、何とも言えないロマンチックな都だ。そしてすべてが風雅である。何年か前、上海に行った時、散歩という言葉を、支那語で白想(バシヤン)と言う、と覚えていた。北京では、その白想が板についていて、誰一人せかせかと歩む人がない」

こんな感じでどこに行っても、見たものを肯定的にとらえる。戦後の小田実の「何でもみてやろう」みたいな感じで、毎日多くは一人でスタスタ歩いてゆく。ハルピンを哈爾濱と書いた時代のことである。「日露戦争の跡も見て来たかったのですが、小心者の私は、戦争があんまり好きじゃないので、旅順の二百三高地へはわざと行かないで止めてしまいました」

満州では領事からモスクワの日本大使宛の外交文書を頼まれる。それも平気で引き受けて、シベリア鉄道に乗る。1931年11月のことだから、考えてみたら、満州事変の真っ最中。「外交文書」はその関係の秘密文書だろうか。そしてパリに着く。

「長い間シベリアを通って来ましたせいか、ここは何も彼も美しく、巴里の街はまるで夢のように見えました。だけどまた、渋い木の実や、骨の多いスープや、黒いビスケットにバタを塗ったのなど貰って食ったあの露西亜人の人情はとてもなつかしいものです」

哈爾濱、巴里、露西亜人などの漢字がいい。そして彼女は東京からパリまで使ったお金を、順番に列記する。「三百十三円二十九銭也」。弁当が30銭とかだから、これを3000円とすると、313万円といったところか。

さて彼女の荒唐無稽なパリの生活については、後日書く(かも)。

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