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2016年3月14日 (月)

モランディと春草の反復について

東京駅近くで見た2つの個展に似た印象を持った。東京ステーションギャラリーの「ジョルジュ・モランディ」展(4月10日まで)と、出光美術館の「勝川春草と肉筆美人画」展(3月27日まで)。どれも同じでほとんど時代の変遷を感じさせない。

特に驚いたのは、イタリアのジョルジュ・モランディ。1890年から1964年まで生きているから2つの世界大戦を経験しているはずだが、いつも同じような絵を描いている。白っぽい背景に白っぽい瓶や壺が並ぶ。1920年代から60年代までほぼ同じ。

展覧会の副題は「終わりなき変奏」だが、まさに同じようで少しだけ違う絵をひたすら描いている。こうした静物ばかりでなく、多くはないが花や風景もある。こちらも似たり寄ったり。作品を見ている限り、イタリアのファシズムもドイツとの戦いもない。

しかし、この微妙に異なる薄い色の重なった瓶や壺の絵は、ずっと見ていると静かな狂気のようなものが感じられる。繰り返しながら微妙に変わってゆく、人生そのもののような怖さがある。

勝川春草展は、とにかく端正な美女ばかりが描かれていた。お金持ちの美人もいれば、芸妓も遊女もいるけれど、みんな色白で目は細くおちょぼ口。どちらかと言えば、幼女のようで妖艶さはあえて見せてない。顔の向きも表情も似ているし、着物の波打つような動きも様式的。

パネルの解説によれば、春草は歌舞伎俳優を描く役者絵で有名になった後に、五十歳前後から肉筆の美人画を描き始めたという。つまりは老いた後の若い女性への幻想。だから現実の女のような肉体性は排除され、清らかな幼女のような美女が描かれたのかもしれない。これまたある種の狂気だろう。

作品は出光美術館のみならず、千葉市美術館などからも集められており、同時代の美人画もあって、なかなか充実している。

そういえば、その昔、小椋桂の「白い一日」という歌があった。

「真っ白な陶磁器を眺めては飽きもせず かといってふれもせず そんなふうに君のまわりで 僕の一日が過ぎてゆく」

この出だしは今でも覚えている。50歳も半ばの私には、モランディの壺も春草の美人も、そんな感じに思えてきた。

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