『見果てぬ日本』の描く3人の日本人
片山杜秀著『見果てぬ日本』を読んだ。「司馬遼太郎、小津安二郎、小松左京の挑戦」という副題に惹かれたから。実は司馬遼太郎も小松左京も一度も読んだことはない。もちろん、小津の映画は見られるものは全部見てるけれど。
司馬遼太郎は、その歴史ものをオーナー会社の社長が好みそうで嫌だったし、小松左京は科学に頼る未来観がどこか政府よりな感じがして読む気がしなかった。そんな彼らと小津を並べて、才人の片山杜秀がどう料理するのか、興味があった。
結論から言うと、ちょっとがっかり。第1部が小松で、第2部が司馬、第3部が小津だが、小津の部分が短すぎだ。第一部が約100ページ、第2部が約150ページなのに、小津は50ページほどしかない。読んでいない本の話を我慢しながら読んだら、よく知っている小津は『父ありき』のみしかきちんと語られない。
一番力が入っているのは分量からもわかる通り、第2部。「司馬は帝大生にも騎馬民族にもなれなかった。挫折した。戦後に求めうる代わりの夢が必要だった。日本の歴史の中に作家としてモンゴル的なものを見つける」
「とにかく司馬は、黒潮に乗ってやってきた人々が、薩摩や大隅や日向や熊野、それから土佐にも住み着き、農耕日本にはくくり切れない別の日本の姿をこの国に保ち続ける原動力になったのではないか、そして今もそこに日本を変えてゆく根源的な力が宿されているのではないか、という話をしたかった」。これが『街道をゆく』であり、『竜馬がゆく』だろう。
「大阪弁からは真の思想も哲学も生まれない。一度居着いた土地からなかなか離れず、ひたすら汲汲とした生活より生まれる言葉は、それを使う人間をますまず窮屈にする」。こうなるともう妄想というか偏見に近い。
この本のポイントは、3人とも敗戦を機に世界観を作ったということ。小松は「本気の総力戦をやり損なった戦時日本のリベンジを成し遂げるためにも、戦後日本は科学文明に立脚する平和主義的産業国家としてギリギリの総力戦をやらねばならない。今度こそ全力を発揮しなければならない。/その教導の文学として科学と終末観を結合させたSF文学が成立する」。
そして小津。「小津の見聞した兵隊たちのような、感情や動作が普段は抑制され、無感動、無感激にさえ見える人間を、平時的な家庭映画の登場人物に持ってきても、おかしくないどころか、かえって人間の本当のところに触れることになる/小津は日中戦争に従事し、中国戦線を転戦することで、そうした人間観を会得したように思われる」。それを演じたのが笠智衆という。
そういえば小津論の冒頭で、建築家でもあった立原道造と丹下健三を比較し、小津と黒澤の関係と似ていると書いていたのもおもしろかった。戦争はかくも日本人に影響を与えた。私たちのように、それを知らない呑気な世代は何を生み出したのだろうか。
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