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2016年3月13日 (日)

『太陽』もまた入江節

4月23日公開の入江悠監督『太陽』を見た。深田晃司監督の『さようなら』もそうだったが、最近は邦画も近未来のSFが増えた。先日書いた『団地』もそう。『太陽』はウィルスで人口が激減し、生き残った人類が2つに分かれたという設定。

つまり、『メトロポリス』を起源とする、選ばれた人々と労働者たちの2つの世界の分断という系譜で、最近だと『エリジウム』などが記憶に残っている。この映画では労働者の貧しい国が「キュリオ」で、健康な肉体と高い知能の国が「ノクス」。

映画は「キュリオ」に住む人々を中心に描く。奥寺鉄彦(神木隆之介)はノクスへの移住を夢見る若者。幼馴染の生田結(門垣麦)は自分と父親(古舘寛治)を捨ててノクスで暮らす母(森口瑤子)を恨んでいる。若者のノクスへの移転募集が始まるが、結の父親は娘に内緒で応募する。そんな時、10年前に事件を起こした鉄彦の叔父(村上淳)が村に帰ってくる。

もともと人気の演劇を映画化したこともあって、入江悠監督の映画としては、ずいぶんメリハリのしっかりしたドラマ構造だ。ところが登場人物たちはやはりこの監督らしい。鉄彦を始めとして叔父も結もその父親も恋人も、みんなヒステリックで大騒ぎばかり。

大声で話し、大げさすぎるほどに演技をし、怒鳴り、泣き、殴り合う。ほとんどカリカチュアのような過激な人々の群像劇は、「サイタマノラッパー」シリーズから全く変わらない入江節。

そのうえ、「キュリオ」は貧しいけれど田舎で農業をして暮らし、「ノクス」は太陽に当たると死ぬので人工的な空間で、美男美女ぞろいという、わざとらしい設定。「ノクス」のプールやスポーツクラブのシーンなどいかにも作り物で、演劇だといいが、映画だとどこか落ち着かない。

それでも、ひたすら耐える父を演じる古舘寛治と、犯罪を犯して四国に逃げ、村に帰って大騒ぎをする叔父役の村上純の存在感が、この映画に重みを与えている。

後半に「ドナウ川のさざ波」などのクラシックの有名曲を大きな音で使うあたりは、園子温を思いだした。「誇張」「過激」「爆音」「狂乱」「作り物」といったキーワードを考えると、石井聰互(岳龍)、園子温、入江悠というラインがあるのかとも思った。

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