『舞踏会の手帖』の日々:その(4)
カンヌ以外の話をしたくなった。フランス人の友人の中でも、本当に「親友」と言えるのは2人しかいない。1984年にパリ第7大学で知り合ったセルジュ君と、1991年に東京で知り合ったフィリップ君。セルジュ君は、授業中に隣に座ったのが縁だったと思う。なぜ仲良くなったかは記憶にないが、大学に近かった彼のアパートによく行った。
私が提出するレポートのフランス語を見てもらったり、そのお礼に日本料理店でおごったり。留学が終わって帰国後、翌年の夏をパリで過ごした時は彼のアパートを借りたし、彼のブルターニュの実家にも遊びに行った。そこに滞在中に、彼に中学・高校教授資格試験の合格通知が届いてお祝いしたことを、昨日のように覚えている。
私の方は国立映画学校の試験に落ちて帰国して、会社員になった。彼は最初はパリ郊外、それからパリ市内の高校の先生をしている。いつごろからか劇団を作って脚本、演出を手がけていた。最近ではようやく軌道に乗って持ち出しゼロで収入が出始めたとのこと。
彼の家に行くと、そこで少し飲んでから2人だけで外で食べる。奥さんや子供を誘わないのは、私が彼の前の奥さんを学生時代によく知っていたからかもしれない。気楽なビストロで、男2人で近況を語り合う。といってもお互いの生活はあまりに違うので、いつも何から話していいかわからないうちに終わる。
フィリップ君は、ある時突然最初の職場に電話をかけてきた。蓮實重彦氏の紹介で、日本にリュミエールの映画を伝えた子孫とのことだった。赤坂見附の串焼き屋で昼ご飯をごちそうした。それから数年がたち、1995年の映画生誕百年に展覧会や上映会をやることになり、彼にコーディネートをお願いした。
彼はいつも恋人のマリオンと一緒に仕事をしていた。東京での映画百年の仕事が終わって、彼らは明治神宮で結婚式を挙げた。それから子供も2人でき、会う時は彼のパリ郊外の庭付きの自宅で、彼が料理をして家族と一緒に食べる。先日は、大きな牛肉のバーベキューだった。
フィリップ君の方が仕事で会ったこともあってか、少しだけよそ行きの会話かもしれない。彼は今は古写真のディーラーをしているが、お互いの仕事がわかっているから、仕事の話が多い。セルジュ君とは見た映画の話とかプライベートな話とか。
私も含めてみんなそれほど愚痴を言うこともなく、何とか生き延びている。小津の映画ではないが、「運がいい方」と思うべきだろう。
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