『舞踏会の手帖』の日々:その(5)
前にシネマテークのもぎりとして働いていたロドルフ君のことを書いたが、彼を紹介してくれたのがMさんだった。彼女は私にある意味で最も影響を与えたフランス人だが、この20年ほど会っていなかった。お互いの生活が違ったからだろうか。
今回こそは会おうと思っていたが、まず連絡先さえわからない。共通の友人のYさんから連絡先を聞いて連絡したが、最初は返事がなかった。
ようやく会うことになったが、日程が合わない。するとある日曜の午前中に急にメールが来て、その夕方に会うことになった。オデオン近くのサロン・ド・テを指定してきたが、入口で会うとお互いにすぐにわかった。
それから、ぽつりぽつりと話す。私が政府系機関を辞めて新聞社に移り、さらに大学で教えていること。彼女が結婚して娘が3人いること。娘たちの成長ぶり。そしてわれわれが出会った時のこと、彼女が日本にやってきた時のこと、私が初めて就職した時のこと。
就職を決意したのは、彼女が勧めたからだった。新聞の広告を見て、The Japan Foundationという英語があったので、「これはあなたにぴったり。パリの事務所もあるし」と言われた。いやいやながら試験を受けにいったら、通ってしまい、2週間後に大学院を辞めて働くことになった。
私がイタリア語を始めるきっかけも彼女だった。彼女は映画の勉強の前はイタリア語の専攻で、イタリア語ができた。「おフランス」にならないために仏語以外のヨーロッパの言葉を学ぼうと考えていた私は、彼女にならってイタリア語の勉強を始めた。
評論家のジャン・ドゥーシェさんを始めてとして、シネマテークのアラン・マルシャンさんなど、フランスの映画関係者を直接、間接に紹介してくれたのも彼女だった。新聞社に移って、立て続けに映画祭の企画が立てられたのは、彼女の人脈がベースにあった。
私の就職が決まった時、初めてのスーツを小田急百貨店で選んでくれたのも彼女だった。その前にもパリで服を買うのに付き合ってもらっていた。彼女は服のセンスが抜群だった、少なくとも当時の私にはそう見えた。
そうして30年がたって、お互いに50歳半ばで向かい合って座っていた。ぽつり、ぽつり。そこにお茶を持ってきてくれたのは、実は彼女の娘だった。娘が週末にそこでバイトしているのを知っていて、場所を決めたという。娘さんも知らされていなかったので、母と知らない日本人を見てびっくりしていた。
過ごした時間は1時間半ほどか。『舞踏会の手帖』シリーズは、たぶんこれをもっておしまい。
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