川喜多かしことヒロコ・ゴヴァースの跡を追って:その(1)
評論家や研究者ではなく、フランスで日本映画の普及に実際に貢献した日本人と言えば、まずはマダム・カワキタこと川喜多かしこさんであり、次にヒロコ・ゴヴァースさんが知られている。ちなみに、私が研究中のマルセル・ジュグラリスさんは、なぜかフランスでは全く知られていないことが今回わかった。
日本では、かしこさんはある程度は知られているが、ゴヴァースさんはまず誰も知らない。知っている人は、フランスでも日本でも、かしこさんは全面的に尊敬するが、ゴヴァースさんについては微妙な評価をする場合がある。
1963年に日本映画140本をシネマテークで上映するのに貢献したのは、かしこさんだった。1984年から86年まで600本の日本映画大特集を企画したのは、ゴヴァースさんだった。しかし、彼女たちについての資料は日本には少ない。かしこさんは、本人が書いた『映画ひとすじに』などの著述はあるが、なぜか川喜多記念映画財団にも手紙などの一次資料は残っていないようだ。
ならば、シネマテーク・フランセーズにありはしないか。サイトの図書館の研究者コーナーでカンヌの資料の存在はすぐにわかるが、この2人は出てこない。シネマテークのEさんに相談すると、かしこさんとシネマテークの書簡は見せられるかもと言う。
9月にシネマテークで開かれる日仏映画交流をめぐる座談会に私が出ることはここに書いたが、Eさんはそれを理由にして非公開資料が見られるようアレンジしてくれた。シネマテークは8月いっぱい閉まるが、その前の最終週にそれが実現した。
そこには、かしこさんとラングロア、あるいはラングロアの秘書のメリー・メールソンやロッテ・アイスナーとの書簡や電報やメモやグリーティング・カードが50点余りあった。年代順に並んでいないので、非公開なのはたぶん未整理だからだろう。
一番古いのは、1957年2月15日のアンリ・ラングロア(シネマテークの創立者で事務局長)からかしこさんへ宛てたもの(常に仏語)。ジャン・コクトーに会ったら、彼は今年カンヌの審査委員長だが、黒澤の特集をやりたがっているが手伝ってくれという内容。当然、オリジナルはかしこさんに行ったはずだから、コピーを取っていたのだろう。
一番新しいのは、1972年2月にかしこさんからラングロア宛(常に英語)のもので、映画研究者の浅沼圭司がパリに行くのでよろしくという紹介状だった。かつて日本の映画研究者がパリに行く時は、かしこさんの紹介状を手にしていたという話を思い出した。
1963年7、8月にシネマテークでは日本映画の大特集をしているが、かしこさんの手書きのメモで、当時の文化大臣のアンドレ・マルローにこの企画を直談判したこともわかる。
ゴヴァースさんは62年にフランスに来ているが、既に66年12月のかしこさんからラングロア宛の手紙は、彼女にC.C.が送られている。ゴヴァースさんは、若い頃からかしこさんのパリの片腕として頼られていたようだ。
この資料については、また書く。
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コメント
ヒロコ・ゴヴァースさんの功績で真っ先に思い浮かぶのは、1971年10月~1972年6月に行われた特集上映「日本映画の75年(75 ans de Cinéma au Japon)」。期間中、150本が上映され、衣笠貞之助、小林正樹、吉田喜重、羽仁進、大島渚、篠田正浩、土本典昭らがゲストとして講演などを行ったと断片のみ伝えられ、日仏映画交流の歴史の中でも、エポックメーキングな企画と思われるのですが、全体像を知ることができません。シネマテーク・フランセーズは過去の上映記録をネットで公開するなんていう計画はないのでしょうか。あまりにも壮大で、しかも実現したとして一体誰の役に立つのかもわかりませんがぜひお願いしたいです。
投稿: okatae | 2016年7月31日 (日) 22時25分
Okataeさま
71-72年の日本映画特集は知りませんでした。ほぼ10年おきに日本映画大特集をやっているのですね。90年代になって、Aliveという配給会社が小津などの古典を大量に劇場公開し始めたり、1997年から日本文化会館が開館するので、シネマテークはむしろ監督特集などに特化してゆきます。
シネマテークの過去の上映記録は紙としてはすべて残っています。ただし、事前予約してその場に行かねばなりません。
古賀
投稿: 古賀太 | 2016年8月 1日 (月) 00時37分