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2016年8月 1日 (月)

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の溶ける時間

ジャック・リヴェット監督の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1973)を始めてきちんと見た。たぶん20年ほど前に東京日仏学院で見たはずだが、途中で寝てしまった。今回見て、奇妙奇天烈な物語が3時間15分も続くのだから無理もないと思った。

今では、それでも抜群におもしろい。セリーヌ(ジュリエット・ベルト)とジュリー(ドミニク・ラブリエ)のいささか同性愛的な無限のおしゃべりの中で、時間と空間が溶けてゆくような不思議な感覚に陥るから。

公園で魔術の本を読むジュリーは、サングラスとスカーフを落としたセリーヌを追いかける。飛びこんだホテルで職業欄に「魔術師」と書くセリーヌは、翌日もやってきたジュリーに関心を抱き、彼女のアパートに住み始める。

セリーヌがアパートでシャワーを浴びるシーンで、ジュリエット・ベルトの裸の小さな胸がえんえんと写るので、レズかと思うがそうはならない。2人は何やら企みを考える。彼らは郊外の屋敷で魔術の本を読んで、おかしな液体を作って飲み、幻想にふける。

その幻想では、三角関係の男女がいて、男の娘を看護婦が毒殺するというもので、監督のバルベ・シュローダーが妻を亡くした男を、ビュル・オジエがその義姉を演じる。何とも芝居がかった長たらしいセリフを彼らが話すのもおかしいが、看護婦をセリーヌとジュリーが交代で演じているからわけがわからない。

さらに2人はその場面をテレビでも見るようにソファで並んで見ていて、時々吹き出す。しまいには、幻想の登場人物がこちらの現実にやってきたり。

筋の決まっていないだらだらした日常が長回しで即興的に撮られて、なぜか映画らしくなり、その中に別の映画が挟み込まれて、見る者は目を白黒させるしかない。現実と映画の境界が次第に消えてゆき、映画の時間は溶けて、見ている自分の時間だけが浮かび上がる。

時々、「しかし、翌日」Mais, le lendementという字幕が出てくる。つまり夜が明けると現実はもとに戻っているというもので、まるで「しかし、映画が終わると」という感じ。

色とりどりの帽子をかぶったセリーヌは、ゴダールの映画のアンナ・カリーナのよう。そういえば、「Je fonce, Alphonce(行くぜ、アルフォンス)」といった『勝手にしやがれ』の言葉も出てきた。

ヌーヴェル・ヴァーグと言えば、批評家のジャン・ドゥーシェさんが興行師デデ役で出ていたのもおかしかった。40年以上前だから40代で、抜群にカッコいい。

ラストでジュリーとセリーヌが舟に乗っていると、幻想劇の3人が舟でやってくる。そのシーンはなぜか無音。そして冒頭と同じ猫。すばらしい。

なおこの映画は最近多い国際共同の4K復元ではなく、フランス国立映画センターによるニュープリントのようだった。フィルムにゴミが付いていたり、パチパチと音がするのが、この映画にはふさわしい。

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