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2016年9月11日 (日)

いまさらながら『祇園囃子』

もうベネチアの結果が発表されたが、それについて書く時間はないので、最近パリの劇場で見た溝口健二の『祇園囃子』(1953)の話をしたい。この映画はHDリマスター版ではあるが、最近流行りの4Kではない。だから始まった時にバチバチと音がして、ちょっとがっかりした。しかし、物語が始まればぐんぐん引っ張られる。

前に見たのはたぶん30年ほど前で、銀座の並木座ではないか。ほとんど中身の記憶がなかった。その年は『雨月物語』があり、翌年には『山椒大夫』も『近松物語』もある。85分と長さも短めのこの作品は小品かと思われていたのか、フランスでは初めての劇場公開だった。

私も重要でない作品だと思っていたが、堂々たる傑作である。冒頭にデビューしたての若尾文子(20歳!映画の中では16歳)が出てきて京都の町を歩くシーンから吸い込まれてしまう。ある家を訪ねると奥から男性の声がして、カメラが横に移動し、芸者姿の木暮美千代に落ちぶれた旦那役の田中春男が金の無心をしているシーンが写る。のぞき込む若尾。

ぴしゃりと断る木暮を見せた後でカメラは玄関に戻り、舞妓にして欲しいと頼む栄子(若尾)を写す。木暮演じる美代春は、保証人が必要とかつての馴染みの栄子の父親に男衆を送るが、そこで現れるのはマヒで体が自由に動かない父親(進藤英太郎)。もうこれだけで、芸者と客の世界のすべてが見えてしまう。

物語は、栄子も美代春も金があっても嫌いな男と寝ることのできない素直さで社会と激突する。その激突の頂点を、溝口は栄子が楠田(河津清三郎)にキスを迫られて唇に噛みついてしまうという、喜劇に近い形で見せる。その後病院に入院した楠田の恰好のおかしさといったらない。

簾や蚊帳、鏡などを巧みに使いながら空間を切り取り、2人の女の悲劇を部屋の出入りのドラマで冷徹に描いてゆく。1つの場面はすぐに終わり、どんどん先に行ってしまう。

始めて溝口を見て、ジャン・ルノワールを考えた。考えつくされた空間をバレエのように人物たちが動きながら激しい感情のドラマを見せるさまは、まさに近い。評論家のジャン・ドゥーシェがこの2人を最大の映画監督というのは、こういうことなのか。そういえば、彼は偉大な映画監督はすべて女性の描き方がすばらしいとも言っていた。確かにその通り。

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