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2016年10月31日 (月)

映画の合間に漱石について考える

映画祭会場の六本木の本屋でふと手に取ったのが、小森陽一著の文庫『漱石を読みなおす』。ここ数年、「朝日」の朝刊連載で漱石はいくつか再読したし、パリでもキンドルで少し読んだのでいいかなと思った。これは1995年に出た本の改訂版だが、今年が「漱石没後百年」を記念しての文庫化という。

改めて漱石が、日本が日清、日露戦争で勝ち、第一次世界大戦に参戦するところまで生きたのだと思う。この本はまさにその時代背景を考慮しながら、漱石自身や彼の小説に広がる思想を政治的、経済的に読み込んだもの。

私が知らなかったいくつもの事実が出てくる。漱石=金之助は父が50歳、母が42歳の時に生まれた末子で、「両親は、金之助が生まれた事実を隠すかのように、まずは古道具屋の夫婦に、そして1年後の1868年(明治元年)11月には、正式に塩原昌之助とやす夫妻のところに、養女にやることにしたようです」

そのうえ、8歳から9歳の頃、養父母が離婚し、夏目家に戻される。「どこで生まれたか」もわからず、「ニャーニャー泣いていた」という『吾輩は猫である』の猫の記憶は、まさに漱石自身のものなのだ。そのうえ、彼は夏目家でも塩原性を名乗らざるをえない。もちろん「姓」は明治新政府が設けたものだ。

「「漱石」と署名された小説の多くが、父親から息子への家督や遺産相続をめぐる確執、長男と次男の対立、それにからんだ金銭のやりとりの問題が繰り返し重要な主題となるのは、こうした「金之助」という、父という「家」の「主人」から名付けられた、「名前」をめぐる記憶と不可分に結びついていたからではないでしょうか」

漱石という号は、間違いを認めず無理矢理正しいと主張し続ける中国の故事から取ったことも私は知らなかった。「自らの存在があたかも金銭であるかのような表象性を持つ、父の命名した「金之助」という名前に対して選ばれたのが、「漱石」という、それ自体、なにかのまちがいでしかないような号だったのです」

正岡子規との関係も興味深い。子規は、ロンドンに留学していた漱石から送られた文章に『倫敦消息』と名付け、雑誌『ホトトギス』に掲載する。これが「漱石」という号の最初だった。そしてその続編を依頼した子規に漱石が返事をしないうちに子規は死んでしまう。漱石は「余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった」と書く。

「おそらく金之助は、「漱石」と署名する度ごとに、子規のことを記憶の中から想起することになったのだと思います」「それは「漱石」と署名された小説の多くが、子規が主張し、金之助が自覚的に受け継いでゆく「写生文」の、実に多様なヴァリエーションであることからも明らかでしょう」

全9章のうち、まだ2章だが、今日はここまで。東京国際映画祭はベネチアなどと違って、本業の授業をやりながら見るので、星取表はかなりしんどい。

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