ようやく『ダゲレオタイプの女』を見る
ようやく黒沢清監督の『ダゲレオタイプの女』を見た。10月半ばから、東京国際映画祭の試写を始めとして用事が立て込んでいた。気がついたら、公開が終わりに近づいていたので、劇場に駆け込んだ。もともと今年の5月のカンヌに出るかと思っていた。
ところがどのセクションにも出なかった。そしてベネチアにもなかった。たぶんコンペで選ばれなかったので、ほかのセクションは断ったのではないかと思うが、真相は知らない。
いずれにしても、ずっと待っていた。日本の監督が、外国の俳優とスタッフで外国語で撮るのはそうあることではない。大島渚の『マックス・モナムール』とか諏訪敦彦の『不完全なふたり』くらいか。この2本もフランスが舞台だが、『ダゲレオタイプの女』もそうだった。
これが、なかなかよかった。まず、彼の世界がそのままストンとフランス映画になっていたのに感心した。つまり、恋愛を軸に幽霊が出てきたり、生と死と間を行き来する物語が、パリ郊外の古い屋敷で展開していた。田舎の大きな家で妻を亡くして娘を溺愛する狂った父親という設定から、私はすぐにジョルジュ・フランジュの『顔のない目』を思い出した。
フランジュの映画は、事故にあった娘の顔の皮膚を、絶えずほかの娘の皮膚に取り換える必要があるという組み立てが秀逸だった。いつもは包帯で顔をくるんで目だけ出しているから、目だけの人間のようで怖いと同時に「見ること」そのものに迫る。
黒沢作品では、父親がかつてのダゲレオタイプを使って写真を撮る。それがありえないような大きな機械で、そのうえいくつもの金属ばさみを使って身体を固定する。そしてかつては妻を撮り、今は娘を撮る。映画で絵画や写真が出てくると妙に居心地が悪くなるが、この映画ではまさに巨大な写真を作る行為そのものが中心となるのだから。
そこにやってきて、娘と恋仲になる青年役のタハール・ラヒムが抜群。日本の監督がフランスのいかにもどこにでもいそうな好青年をさらりと描くとは。そして娘役のコンスタンス・ルソーが、死と生の間を行き来する役にぴったり。狂った父親の写真家役のオリヴィエ・グルメも淡々として悪くない。
あえて言うならば、『岸辺の旅』や『トウキョウ・ソナタ』にあった家族や男女の情愛が、いまひとつ薄いのが物足りなかった。しかしフランスで撮りながら、全くエキゾチズムに陥らずに自分の世界を作り出した黒沢清はやはりすごい。
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