デザイナー・ノスタルジア:その(1)
昨日、アテネフランセでイオセリアーニをめぐる話をしたが、冒頭でかつて自分が手がけた映画祭に触れた。話しながら考えていたのは、それぞれのポスターやカタログであり、それを手がけたグラフィック・デザイナーだった。
22年間の会社員生活で楽しかったことの一つに、デザイナーとの仕事があった。1987年に政府系機関に勤め始めて、一年半ほどで美術展のセクションに異動になった。そこは日本関係の展覧会を海外で開催していたが、印刷物は普通は美術カタログの制作会社に丸ごと依頼していた。
ところが先輩たちが手がけた印刷物を見ると、いくつかはデザインが際立っていた。聞いてみるとフリーのグラフィック・デザイナーに頼んでいるという。サンパウロ・ビエンナーレの担当になった時に、先輩に紹介してもらって頼んだのが、矢萩喜従郎さんだった。
今では建築や家具まで手掛ける巨匠だが、その頃はたぶん30代後半だった。パンフをお願いしたが、表紙に目の覚めるような赤を使い、切り込みを入れたデザインがカッコよかった。彼とは新聞社に移ってから、マグリット展でもう一度仕事をした。
その次に頼んだのが、伊丹友広さん。私がゼロから立ち上げた「日本のビデオアート 1980年代展」という企画を作った時、個性的なデザイナーに頼みたいと思った。たぶん水戸芸術館の展覧会のカタログを見て、伊丹さんの名前を知ったのだと思う。そこで制作会社に紹介してもらった。
この企画は全10巻のビデオセットを作って、世界各地に巡回するというものだったが、英語の小冊子を作る必要があった。伊丹さんは「サテン金藤」という手触りがよく発色のいい紙を使い、さらに表紙を複雑な加工にした。これまたカッコよかったが、予算が相当かかってしまった。
事前に申請していたのがたぶん200万円ほどで、実際には800万円ほどかかった。ある時海外出張から帰ったらそのことがバレていて、叱責を受けて異動になってしまった。その機関はそれから1年余りで辞めたが、「印刷予算4倍事件」で飛ばされたことが、そのきっかけとなったのは言うまでもない。
デザイナーに入れ込んだおかげで、私は数奇な運命をたどることになった。たぶん伊丹さんはそのことは知らないと思う。いつかまた仕事がしてみたい。
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