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2017年2月19日 (日)

『マグニフィセント・セブン』を考える

友人からおもしろいと聞いたので、『マグニフィセント・セブン』を劇場で見た。学生からこの映画のアントワーン・フークワ監督なら期待できる、とも聞いた。私は監督名さえピンと来なかったが、『七人の侍』や『荒野の七人』のリメイクならば、やはり見逃せない。

結果としては、映画館で見てよかった。後半の銃撃戦の迫力はやはりスクリーンでないと味わえないから。そのうえに、いくつか面白い点があった。

まず一つは、全体にヒューマニズムが抑えられていたこと。町を助ける7人と町民たちの交流がほとんどない。最初に助っ人を探しに行った娘エマ以外の町民は目立たないし、彼女だけがきちんと会話をし、最後に重要な役割を果たす。

町民の側は塹壕を掘ったり、行き止まりに追い詰めたりといった『七人の侍』的な作戦を練るが、敵の勢力は何十倍も大きく、軍隊のような集団が攻めてくる。殺しても殺しても無限に現れて、最後はガトリング銃で町中を打ちまくる。しかし、7人の知恵と勇気でそれを乗り越える。

できるだけ、クールな仕上がりを目指したのだろう。その分、7人の陣容が存在自体で多くの物語を含む。中心となるサム(デンゼル・ワシントン)は黒人だし、イ・ビョンホン演じるビリーはたぶん中国人役。それにインディアン(ネイティブ・アメリカン)のマーティンやメキシコ人のバスケスが加わる。

つまり7人のうち、4人が非白人だ。そのうえ、最後に生き残る3人は黒人、インディアン、メキシコ人なのだから驚く。これまでのハリウッド映画は、結局有色人種やヨーロッパの俳優は途中で死んでしまうことが多かったことを考えると、これはかなり珍しい。

フークワ監督自身がアフリカ系ということも大きいが、現在においてあえて西部劇を作るとは、こういうことになるのだろう。そういえば、敵の集団の中にもインディアンの酋長がいて、マーティンに「インディアンの恥だ」と言われるのも興味深い。そういえば、親分のサムはインディアンの言葉がわかり、それがマーティンを引き込むきっかけにもなった。

登場人物に多様性を持たせた分、物語は純粋なアクションにしたということだろうか。現代において、西部劇を作るのは大変なことになった。

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