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2017年2月 9日 (木)

『草原の河』を見る人々

ジル・ドゥルーズは現代映画を「見る」人の映画と規定した。行動するのではなく、世界を「見る」のがネオレアリズモ以降の特徴という。4月29日公開の『草原の河』を見て、このことを思い出した。

チベットのソルタンジャという監督の映画だが、チベット人監督作品の劇場公開は日本初という。中国で学んだ監督で、この映画も製作は中国ではあるが。

ランチャンという名の少女は見る、時々はテントの隙間から。悪ガキにクマのぬいぐるみを取り上げられるのを。なついた子羊がいなくなり、狼に襲われたのを。母のお腹が大きくなるのを。父親が祖父のことを避けているのを。祖父が街の病院にいるのを。

母のルクドルは見る。娘が乳離れできないのを。なぜか次の子供ができるのを嫌がっているのを。夫は義父と仲良くせず、嘘をつくのを。

父のグルは見る。妻のお腹が大きくなるのを。周囲が自分の父親を称賛するのを。娘がその父になつくのを。

みんなが不安そうに世界を見ているが、誰も説明しない。互いの会話は少なく、心の中は語らない。それぞれの視線は宙に舞い、自然に任せる感じ。そこからじわじわと無限の視線のドラマが収斂してゆく。

そして、「草原の河」を親子と祖父が並んで見るシーンへとたどり着く。彼らを見る私たち。相変わらず説明も和解もないけれど、何かが収まったことを感じてしまう。

舞台のほとんどは草原で、親子3人のテントがあるだけ。羊を放牧しながら、用事があると父はバイクを飛ばす。一体近所はどれだけ離れているのだろうか、見当もつかない。

だから父娘が祖父のいる病院に行くために町に出た時には、その人混みにびっくりする。見ているこちらまで草原の時間を生きていたからだろう。

映画は、草原の中に3人の親子がほとんど無言で暮らしているだけでも十分に成り立つのだと、あらためて思う。グルが自分の父に抱く違和感が、見てしばらくしてだんだん心に沁みてきた。

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