卒論の話:その(4)
坪内祐三氏に『古くさいぞ私は』という本があった。自分もそうだと思う。少なくとも論文では、今風の流行り言葉は許さない。一番多いのは、「立ち位置」だろうか。「戦後の小津安二郎の立ち位置は」などど書かれると、ムカッと来る。
「立ち位置」はたぶんテレビ用語。つまり芸能人にここに立ってくれと示すものだが、それからもっと広がって「自分の位置の取り方」という意味になった。周囲の「空気を読み」、自分の位置を考えるという感じで、その自己抑制的な表現が嫌だ。私は「立場」や「役割」などとと訂正する。
同じテレビ用語で「目線」というのがある。「ハイ、目線はこっちです」とカメラマンが合図するもので、映画の現場でも使っていると思うが、これもダメで「視線」に直す。「視線」は「目線」のように技術的ではなく、もっと精神的な深さを持つ。なにより映画は視線のドラマだから。
もっと嫌いなテレビ用語は「視聴」。「この作品を視聴した」とか「視聴者としては」とかを読むと、イライラする。映画は「見る」もの。視聴はテレビやスマホであり、スクリーンが軽視されている感じがする。NHKなどの「視聴者のみなさまへのお知らせです」というような言い方から来たのか。
「笑える」とか「笑いをとる」という言い方もテレビ的か。カタカナだと「キャラ」「スタンス」「テンプレ」「サイド」「メイン」「アイテム」あたりはテレビとは関係あるのかわからないが、よくない。
最近多いのは「結果、」「基本、」という言い方。やはり「その結果として」「基本的には」と書いて欲しい。別に話す分にはかまわないのだが。
それから「とても」「非常に」「大変」という強調語。これを使うと「とても感動した」という具合で、ずいぶん安っぽくなる。
引用がきちんとできない場合も意外に多い。「「小津のローアングルは日本文化の美学から来たものだ」とある」と書いて注を打つ。「とある」ではなくて、「リチーは「小津の・・・」と書く」というように、著者名を本文に書こうとしない。誰が書こうとも「とある」というのは、やはりネット文化の並置性というか「どこにでもある感じ」から来るのか。
これから卒論を書く学生は心得るように。もちろん、本質的には言葉に誤りはない。言語は絶えず変わりゆく。話した瞬間から、書いた時からすべて正しい。しかし、論文は「古くさいぞ」、というだけの話。
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