« 古唐津を楽しむ | トップページ | 私に人生相談とは »

2017年2月13日 (月)

試写会について語ろう:その(2)

私が初めてマスコミ試写会に行ったのは、1989年あたりだと思う。当時勤めていた政府系機関には日本映画を海外へ普及する部門があった。そこの部長のYさんに来た試写状をもらって行ったのが最初だと思う。

そのうえ行ったのは、元祖アート系の泣く子も黙るフランス映画社の試写だった。今のシネスイッチ銀座のあるビルには当時、川喜多記念映画財団のオフィスや「東宝東和第2試写室」があった。

フランス映画社は柴田駿氏とその妻の川喜多和子さんの会社だが、試写会場はいつもそこだった。おそらく和子さんの縁で使っていたのだろう。私は震える手で自分の総務課の名刺を添えて試写状を差し出した。

記名の者以外お断りという原則も知らなかった。しかし和子さんは「あら、映画好きなの。じゃあこれからあなたにも試写状を送るわね」と言ってくださった。私はびっくりした。

中に入ると、「小森のおばちゃま」がいたのにも驚いた。その時見たのはたぶんベルトルッチの『暗殺の森』だったと思う。映画が終わるとみんな興奮して話していた。面識のあったフィルムセンターの岡島さんは「おはようございます」と試写会にやってきて、終わると和子さんから「岡島君、ちょっと残りなさいよ」と誘われていた。

すべてが夢のような世界だった。それからフランス映画社の試写状をもらうようになった私は、夜の18時の回に合わせて仕事を早く済ませていつも緊張して出かけた。ある時は、和子さんが淀川長治さんを抱きかえるようにして連れてきたこともあった。おすぎさんも今野雄二さんも川本三郎さんも佐藤忠男さんも蓮實重彦さんも見かけた。まさにきら星のように見えた。

東和の試写室にはいつもギリギリに行った。早く行くと間が持たずに緊張してのどがカラカラになったし、有名人のいつもの席に座ってしまうようで怖かった。満員で座れないとかえってほっとして、近くの映画館に行った記憶がある。

和子さんが亡くなられたのが1993年。その時まではフランス映画社の試写はこの試写室だった気がする。調べてみたらその時の和子さんはわずか53歳だった。50歳前後の頃に、わけのわからない20代の私に優しく接していただいたことになる。

|

« 古唐津を楽しむ | トップページ | 私に人生相談とは »

映画」カテゴリの記事

コメント

小生もフランス映画社の試写の時は次のアポまで時間をあけるようにしていました。川喜多和子さんから「残って」と言われるので。大いに緊張しましたが、かけがえのない時間だったと感謝しています。
和子さんの凄いのは30前後の駆け出しチンピラ記者の書いたものを隅から隅まで読んでいらっしゃったこと。後日、ゴールデン街のジュテのカウンターのハスの止まり木から、「ところで古賀さん・・・」と、冷静に的確に記事の問題点を指摘されました。大いに恐縮し、同時に励みにもなりました。
いまの配給会社や宣伝会社の若い人って、やたらとメールくれたり、電話くれたりするけれど、ほとんど活字を読んでない。当時と今とで一番違うのはそこだと思います(まあ、読まれる新聞を作ってないと言われればそれまでですが)。露出(嫌な言葉。わたしは絶対に使わない。使うやつは信用しない)の面積と時間しか眼中にない広告屋ばかりになりました。真の読み手と書き手が激減したと思います。

投稿: 古賀重樹 | 2017年2月13日 (月) 23時13分

おはようございます。
ちょうど佐藤忠男(2004、第1刷)『キネマと砲聲』岩波現代文庫を再読しておりました。何度読んでも、どこを読んでも面白いこの本、この度は、川喜多長政の生き方にあらためて感じるものがありました。かしこさんは本当に素敵な方だったのですね。参考になりました。鎌倉市川喜多映画記念館にまた行ってみたいと思っております。

投稿: KAZUKO | 2017年2月14日 (火) 08時06分

おはようございます。その後調べてみたのですが、和子さんはかしこさんの娘さんのお名前だったのですね。失礼致しました。

投稿: | 2017年2月15日 (水) 00時50分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/64880175

この記事へのトラックバック一覧です: 試写会について語ろう:その(2):

« 古唐津を楽しむ | トップページ | 私に人生相談とは »