村上春樹の新作は:その(3)
『騎士団長殺し』についてもう1回だけ。「私」は、妻と別れた時はプジョーに乗っていた。彼は友人の父親の家に住む時にトヨタ・カローラ・ワゴンを買う。つまり、妻と再び暮らすまでの「自分探し」の時期に、フランス車から国産車に変える。周りの登場人物がジャガーやボルボやミニに乗るから、これは目立つ。
「私」は村上作品のかつての主人公に比べると、極めて無趣味に描かれている。「雨田は昔から酒や食べ物にうるさい男だった。私にはあまりそういう趣味はない。ただそこにあるものを食べ、ただそこにある酒を飲む」
そのうえ、携帯電話は妻と別れた直後に捨てたし、メールもしない。コンピューターに触れることもネットへのアクセスもない。彼の連絡手段は固定電話のみで、1990年代前半に戻ったように現代社会を拒否する。
「私」は友人の父親の描いた日本画『騎士団長殺し』をこっそりと眺める。この絵を見たもう1人の少女まりえが失踪し、彼女を見つけるために「私」は絵から出てきた騎士団長の命令通りに団長を殺す。そして絵に出てくる「顔なが」を助けながら、いつの間にか祠の穴にいた。
穴に閉じ込められた「私」はこうした「妄想」の後に免色に穴から助けられ、まりえも見つかる。実際には雨田具彦が老衰で亡くなった以外はほとんど何も起こらずに、万事が解決する。
終盤で驚くべきは、これらの事件が起こった後に「私」は再び妻と暮らして数年たって、東北大地震が起こることだ。つまり、この小説は地震が起こった後の回想だということがわかる。村上はこれまでの小説の中に学生運動やオウム事件といった歴史の痕跡を強く残してきたが、この小説ではここで初めてリアルな歴史が登場する。
そこで「私」は妻とその娘(たぶん自分の子ではない)と生きる自分を肯定する。「どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのような荒ぶる曠野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ」「私はおそらく彼らと共に、これからの人生を生きていくことだろう」
小説は「きみはそれを信じた方がいい」という娘への言葉で終わる。この突然の信仰心はどこから出てくるのか。地震が起きてから、自分の迷える9か月を思い出す。だんだん無駄なものや現代的なものをなくして日本的なものに満たされて、ようやく現状の全肯定に至る。
村上春樹もとうとう今度の小説で「日本回帰」を果たしたのかもしれない。これは昨今のむやみに日本をありがたる愛国ムードと無縁ではない気がする。
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