永田雅一にハマる:その(1)
『全裸監督』の村西とおるといい、『狂うひと』の島尾敏雄・ミホ夫妻といい、狂ったように過剰な人生を生きた人が好きだ。自分がそういう生き方ができずに、安全な道ばかり歩んでいるからかもしれない。最近の関心は、少し古いが永田雅一。
映画関係者でも知らない人もいるだろうが、今はなき映画会社・大映の創立者であり、1971年に倒産するまで社長だった。戦後の日本映画黄金期の大手映画会社には各社にワンマン社長がいたが、大映の永田のように自分で会社を作って30年も経営し、自分でつぶした人はない。
だからその生涯は波乱万丈で抜群におもしろい。彼は自ら2冊の本を残している。1953年の『映画道まっしぐら』と1957年の『映画自我経』で、大映の絶頂期に書かれたものだ。前者は雑誌の記事を集めたものだが、後者は『キネマ旬報』の連載でよくまとまっている。
永田の功績は多い。戦前の一番の功績は、大日本映画株式会社=大映を作ったこと。その前に、日活に丁稚同然で入社して、経営を立て直す。労働争議をまとめたり、社長の横田栄之助を辞めさせたり、お金を使わずに日劇を日活のものにしたり。
28歳で日活を辞めて、松竹の支援で第一映画社を立ち上げる。その時に駆けつけたのが、監督の溝口健二、伊藤大輔、森一生、脚本の依田義賢、撮影の三木稔というからすごい。
そこで溝口の『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』(ともに1936年、山田五十鈴主演)といった傑作を作る。2年間で20本を作るが、スターになった山田の妊娠もあって解散すると、松竹系の新興キネマの経営を引き受ける。そこにまた溝口や伊藤や依田がついてくる。
新興キネマは予算がないので、化け猫映画などの怪奇もので名を馳せる。『祇園の姉妹』などの著作権は現在は松竹にあるし、新興キネマの撮影所は現在の東映京都撮影所というから、映画会社は実に入り組んでいる。
戦時体制で当局が映画会社を東宝、松竹の2社を中心に2つにまとめるという案が出た時に、永田は3社案を出して情報局を説得する。1942年、東宝、松竹以外の日活、新興、大都が合併して大日本映画株式会社=大映が生まれて、永田は36歳で専務となった。
この後しばらくして永田が警視庁や刑務所に留置されていたことは、知らなかった。大映を作るために情報局に賄賂を贈った容疑で55日間拘留されたという。釈放後、菊池寛を大映の社長に迎える。この時期の傑作は『無法松の一生』(43)だろう。次回は戦後について書く。
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